20回 マンガ部門 講評

こぢんまりとした閉塞感、多士済々の競演

今年もたくさんの素晴らしい作品に出会うことができた。昨年に比べると海外マンガは、ユン・テホ/訳:古川 綾子/金 承福の『未生 ミセン』のような収穫はあったものの、全体としては影が薄かった。いくつかの理由が複合的に絡まり合っているのだろうが、海外マンガの翻訳が出版されづらくなってきている状況が一因として挙げられるのではないか。多少値段が高くても異質なおもしろさを追求する余裕が社会にも個人にもなくなって、すべてがスマートフォンの世界に収斂していく過程が深化しているようである。自主制作作品も印象に残る作品が昨年ほど見られなかったが、仲間内の評価は求めても、メディア芸術祭のような公のコンクールで採点されたくないという人が多いのかもしれない。それよりも「いいね!」の数によって得られる承認や慰めを求めているのだろうか。いずれにしても、2つの分野ともこぢんまりとした閉塞感に覆われた日本の現況が反映されているようで若干の懸念を抱いた。とはいえウェブマンガでは、音を出したり、画像をスライドさせたり、立体的に見せたりする作品がエントリーされ、まだ発展途上の感は否めないがアニメーションとマンガの中間的な表現の可能性を感じさせた。国内のマンガは相変わらず良作ぞろいで審査に難渋した。世間を騒がせた作曲家の取材をからめながら聴覚障害者の世界を描いた作品、伝説のアニメーション作家による飄々たる力作、被災地の風景を鶏の視点から鳥瞰するポエジーで読ませる作品、福島の原子力発電所に労働者として潜入する体を張ったドキュメンタリーマンガ、複雑な家庭事情を抱えた子どもたちを味わい深く描いた作品、マンガの暴力描写と表現の自由との関係性や作者の倫理について考えさせる作品......枚挙にいとまがない。経済的には出版業界も日本社会も何かと暗い話が多いが、マンガ作品のクオリティに関する限り、悲観的になる必要はまったくないようだ。

プロフィール
古永 真一
文学者/首都大学東京准教授
1967年生まれ。パリ第7大学留学を経て早稲田大学文学研究科博士後期課程修了。首都大学東京准教授(表象文化論)。著書に『ジョルジュ・バタイユ─供犠のヴィジョン』(早稲田大学出版部、2010)、『BD─第九の芸術』(未知谷、2010)、訳書にバタイユ『聖なる陰謀─アセファル資料集』(共訳、ちくま学芸文庫、2006)、ティエリ・グルンステン『線が顔になるとき─バンドデシネとグラフィックアート』(人文書院、2008)、パスカル・ラバテ『イビクス─ネヴローゾフの数奇な運命』(国書刊行会、2010)、フランソワ・スクイテン+ブノワ・ペータース『闇の国々』(共訳、小学館集英社プロダクション、2011)、セバスチャン・ロファ『アニメとプロパガンダ』(共訳、法政大学出版局、2011)、フランソワ・スクイテン『ラ・ドゥース』(小学館集英社プロダクション、2013)、セルジオ・トッピ『シェヘラザード─千夜一夜物語』(小学館集英社プロダクション、2013)、マルク=アントワーヌ・マチュー『神様降臨』(河出書房新社、2013)、グルンステン=ペータース『テプフェール─マンガの発明』(共訳、法政大学出版局、2014)ほか。