20回 アート部門 講評

審査の経験から

審査をしながら、そもそもアートとは何なのかについて少なからず自問することとなった。それは応募された作品の膨大な量と多岐にわたる形式、あるいはこの芸術祭の部門の区分けや「メディア芸術」という言葉の幅の広さが原因だったと思う。それはけっして否定的なことではなく、幅広いアートの可能性を引き受けるこの芸術祭の魅力なのだ。実際審査会は、さまざまな作品を前に審査委員それぞれのアートに対する考えを深め合う、豊かな時間となった。ひとつ、審査をしながら感じたのは以下のようなことだった。現代の美術は既存の表現を壊し、それまでのものの見方を解放させる欲望として存在してきた。だから、新たな技術を用いて見えざる世界の構造を可視化したり、新たな関係性を提示するような作品は評価されて当然だろう。しかし、その見えざる世界の可視化や、新たな関係性をつくるための道具が、ただ単にひとつの確認の作業となって完結してしまっているような作品が少し多かったように感じたのだ。コンセプトの強度や、表現するために自ら選んだ技術に対する批評性はもちろん大切だが、同時に表現とはコンセプトの説明だけでは終われない何かなはずだ。つくり手本人にもうまく説明できない表現の衝動のようなものが、継続と反復によって作品の精度を増しながら結実していく。それでも残るその発端の衝動の謎が、アートの魅力なのではないか。審査をしながら、そもそもアートとは何なのかについて少なからず自問することとなった。それは応募された作品の膨大な量と多岐にわたる形式、あるいはこの芸術祭の部門の区分けや「メディア芸術」という言葉の幅の広さが原因だったと思う。それはけっして否定的なことではなく、幅広いアートの可能性を引き受けるこの芸術祭の魅力なのだ。実際審査会は、さまざまな作品を前に審査委員それぞれのアートに対する考えを深め合う、豊かな時間となった。ひとつ、審査をしながら感じたのは以下のようなことだった。現代の美術は既存の表現を壊し、それまでのものの見方を解放させる欲望として存在してきた。だから、新たな技術を用いて見えざる世界の構造を可視化したり、新たな関係性を提示するような作品は評価されて当然だろう。しかし、その見えざる世界の可視化や、新たな関係性をつくるための道具が、ただ単にひとつの確認の作業となって完結してしまっているような作品が少し多かったように感じたのだ。コンセプトの強度や、表現するために自ら選んだ技術に対する批評性はもちろん大切だが、同時に表現とはコンセプトの説明だけでは終われない何かなはずだ。つくり手本人にもうまく説明できない表現の衝動のようなものが、継続と反復によって作品の精度を増しながら結実していく。それでも残るその発端の衝動の謎が、アートの魅力なのではないか。受賞作はそれぞれ、世界の新しい見方を探求しようとする強い意志と、その衝動の発端にあった何かとが、豊饒な謎のかたまりとして生々しく結実した作品だった。大賞作品の『Interface Ⅰ』における宙に張られた線の絶え間ない運動や、優秀賞の『Alter』の身体のあの揺れや震えには、生命や時間、あるいはイメージとは何かについていくつもの問いを生む力がある。その揺れや震えは、言ってしまえば我々自身と、我々の周りに溢れかえっているものなのにもかかわらずだ。アートとは何かということの抜本的な謎が、ここに立ち上がってきていた。

プロフィール
石田 尚志
画家/映像作家/多摩美術大学准教授