18回 受賞作品エンターテインメント部門Entertainment Division

優秀賞

新人賞

審査委員会推薦作品

審査講評

  • 東泉 一郎
    デザイナー/クリエイティブディレクター
    インテリジェントからフィジカルへ
    古くは20世紀後半から、今日に至るまで、さまざまに実験され、試行錯誤されてきたメディアアートの手法と表現は、やがて消費され、近年急速に商業的利用へと降りてきた。そして大掛かりに、仕組みのギミックで人目を引こうとするものが量産されていく。その一方で、水面下では、個人や小さなグループによる新しい試みの兆しが、そこここに、確実に、見え始めている。インターネットやモバイル・コミュニケーションの技術が初めから身の周りに当たり前のようにあった世代の、オープンでシェアリングな、デジタルかアナログかというようなことも意識しない、そんな感覚の持ち主による、新たなフェイズだ。今回の作品群は、そういった現在の反映だった。そして、注目すべき作品の多くが、共通した何かを纏(まと)っていた。それは何だろう?
    大賞の『Ingress』 は、単純な陣地取りゲームの形を取りながら、実在の地理と情報空間を入り交ぜ、その実体は人をリアルなフィールドへ引っぱり出す触媒だった。『Kintsugi』『3RD』 『のらもじ発見プロジェクト』『handiii』の4作品も、ことごとく「現実との接し方」が主題に含まれているし、新人賞の3作品もまた、何らかのフィジカルな実体やそこにある現実を取り上げている。時代の状況を背景に、人の営みも、気分も、創作も、「フィジカルに根差したリアリティ」に回帰しつつあるのだろう。仕組みとしてはむしろプリミティブであっても、「新技術応用のデモンストレーション」から、本当の意味での表現へと向かっている。
    アートとコマーシャルメディアの定義や境界が曖昧で無意味になっていく一方、コンテンポラリーアートの多くが、ギャラリーシステムと共犯関係を結び、古典的な美術品同様、物欲を満たすガジェットと化していく現在。しかしここには、多くの「新しい何か」の提示があった。それはエキサイティングなことであり、救いでもあった。
  • 米光 一成
    ゲームデザイナー
    一時間早く家を出て寄り道した
    メディア芸術という混沌かつ粗放なカテゴライズ、いやそれがエンターテインメント部門と更に絞り込まれたように装われても、その混沌かつ粗放さは収まりようもなく、映像、ゲーム、ガジェット、ウェブ、アプリケーションというカテゴリーからも作品たちははみ出している。それらを相互に比較し、大賞や優秀賞といった区分をすることがそもそも可能なのか、という初期設定への困惑をどうにか乗り越え、それは「メディア芸術とは何か」「エンターテインメントとは何か」と自分自身に問い掛ける刃なのだと言い聞かせ、真摯な姿勢で審査に臨んだ。
    『Ingress』が圧倒的なパワーを見せつけ、審査委員全員一致で大賞に決まった。GPSを駆使し、現実世界に仮想世界のレイヤーを覆い重ねることで「ここ」にいる我々の行動を変える。ポータルをハックするために目的の時間より一時間早く家を出て寄り道してしまう。公園のオブジェや路地の地蔵にこれ程詳しくなったのも『Ingress』効果だ。脳と指先とディスプレイで完結するのではなく、街に出て、身体を使って展開する。心技体がそろった作品だ。『のらもじ発見プロジェクト』も、街に出て、今まで見過ごしていたものをピックアップして拡張する試みとして超刺激的なプロジェクト。個人情報が虚構に組み込まれた作品『親愛なる』も本として実体化することで現実に飛び出た。それらの作品が鑑賞者を通じて現実に還元されるだけでなく、作品が直接的に現実を取り込み、世界ごとプレイヤーを巻き込むパワーは衝撃だ。『口先番長』のしりとりを拡張した独自ルールの構築、『P.T.』のティザー広告をプレイアブル(遊ぶことができる状態)にするという製作環境に対するチャレンジ、『ロストディメンション』の先の展開を知りたいと思わせるベクトルの強さ、『妖怪ウォッチ2 元祖/本家』の作り込まれた街の凄み。ゲームのクオリティとジャンルとしての拡散の勢いも実感したし、審査カテゴリーが無意味化するような、はみ出した作品群が多い応募状況に希望を感じた。
  • 久保田 晃弘
    アーティスト/多摩美術大学教授
    デザインの力
    ゲーム、映像、ガジェット、アプリ、ウェブとまさに昨今のメディアの多様化を象徴するような「エンターテインメント」部門だが、そんな中でも今回の応募状況の特徴としてまず挙げたいのが、映像作品の量及び質の向上だ。YouTubeやVimeoがテレビを越える日常の映像メディアとなった今、一般の人々の映像に対するアクセシビリティは格段に向上した。子どもが環境の中で言語を獲得するように、今の若者はインターネットから映像言語を(暗黙のうちに)獲得する。「デジタルネイティブ」とは(メディア芸術の側面から見ると)映像ネイティブということでもある。
    もうひとつのポイントは、エンターテインメント部門の受賞作品の多様さを横につないでいるのが(「文化庁メディア芸術祭」の中では明示されていない)「デザイン」である、ということだ。本年度のエンターテインメント部門の大賞である『Ingress』は、もちろんひとつのゲームではあるが、それと同時にアプリでもあり、ウェブでもある。そこにはすべて「デザイン」という視点が含まれている。ゲームデザイン、アプリ(の)デザイン、ウェブデザイン......更には、そうした多様なメディアを統合することが「デザイン」であると総称することもできる。何もこれは『Ingress』に限ったことではない。優秀賞の『のらもじ発見プロジェクト』も(『Ingress』同様に)世界と地域をつなぐストリートデザインであり、ダウンロードできるフォントや精緻に作られたウェブページも、デザイナーのみならず多くの市民にとって、今という時代における優れたデザインの事例となるだろう。
    今日のデザインを特徴付けているキーワードが「オープン」「ソーシャル」「ハイブリッド」であるとすれば、新人賞の『Auto-Complain』はまさにその典型例といえる。学生たちにはよく「アートにデザインを使え」「デザインにアートを使え」と言っているが、デザインは目的とする表現に到達するための手段であると同時にガイドラインである。日本で最も優れたデザイン賞は、実はこの「文化庁メディア芸術祭 エンターテインメント部門」の中にある。
  • 宇川 直宏
    現在美術家/京都造形芸術大学教授/DOMMUNE主宰
    オルタナティヴ・フューチャー達の鼓動
    メディア芸術とは一体何だろう? 応募作品を具(つぶさ)に見れば見る程、その把握できない伸びしろに圧倒される。数百の作品を浴びるように鑑賞し、脳内をメディア芸術らしき世界一色に塗り潰すと、その地平に浮かび上がったものがある。それは、メディアでも、テクノロジーでもなく、生身の人間だ。耳を澄ますと聞こえてくるアーティストの息づかい、気配として佇む作家の残り香、透かし見ると浮かび上がる手垢、血痕......。アーティストの眼差しや想念が創造の光となって、テクノロジーを超越し、立ち上がるかのようだ。新たなる触媒も新奇な技術発明も、創造の主が利用する道具、そして器に過ぎない。ロックアートも洞窟壁画も、ナスカの地上絵もピラミッドも、神話を背負った太古のメディアアートだととらえることができるが、遥か以前からメディアもテクノロジーも、イマジネーションを具現化するひとつのツールに過ぎないのである。想像力は創造力になり得る、つまり未来を現実化する力こそが、メディアアートにとって最も重要なアビリティではないか? 今回入賞したさまざまな作品群を感じて欲しい。光ファイバーを駆使したカメラ兼映写機を発明した五島一浩の『これは映画ではないらしい』、電磁波をセンシングし、可視化/可聴化した坂本龍一と真鍋大度による『センシング・ストリームズ―不可視、不可聴』、GPSと世界地図でゲームの中の仮想世界を現実の世界と融合したGoogle's Niantic Labsの『Ingress』、地方商店街の看板の手書き文字を保存しようとする『のらもじ発見プロジェクト』―。そこにはステレオタイプな未来像など軽く打ち破ったオルタナティヴ・フューチャーたちが、鼓動を刻んでいるはずだ。
  • 飯田 和敏
    ゲーム作家/立命館大学映像学部教授
    ゴシップ、スキャンダルとエンターテインメント
    情報社会の成熟期にある現在、ゴシップやスキャンダルといった「負のエンターテインメント」が常態化している。特に日本ではそれが顕著になった1年だったと思う。ある出来事が瞬間的に多くの人々の耳目を集め、状況の変化がリアルタイムで共有される。このことには抗い難い魅力がある。僕はこうした環境下で作品を制作し発表することに、一作家として戸惑いがある。つまり、マスメディアとネットが連動して現実の複雑さが短絡されるという現象に対し、個人の想像力を出発点とするフィクションが拮抗(きっこう)できるのか、という疑問だ。文化庁メディア芸術祭の審査を通じて、本年もまた多くの作品に触れた。そこで感じたことは、優れたエンターテインメント作品は、この問題につまずくのではなく、少し先の現実を見据えていることだった。
    『Ingress』『のらもじ発見プロジェクト』はどちらも多くのプレイヤーがネットと現実を行き来しながら、新しい価値を発見し創造していく。その価値は「生産と消費」の経済サイクルとは異なる軸に存在する。更にグローバリズムとローカリティが「対立」するためだけの概念ではないことを柔らかく示唆している。『handiii』『Kintsugi』は身体の一部を欠損し、不自由を強いられることになった状況をユーザーや作家自身の「楽しみ」へと変換する大胆な試みだ。両作は欠損という言葉を無効化するのと同時に、私たちの身体に対する思い込みにメスを入れていく。これは人工知能の誕生が近づく中で、重要な問いとして成長していくはずだ。また、本年は映像作品が充実していた。おそらく映像作家はアウトプットのフレームイメージを留保したのだ。それが再生されるのはスクリーンかもしれないし、スマートフォンかもしれない。結果的に作品は作家と観客の共犯関係によって立ち上がるという事実がむき出しになった。
    翻って「メディア芸術」とは、テクノロジーとともに拡張し、定義されることを拒み続けるものなのかもしれない。そして、その流動性が「負のエンターテインメント」を凌駕(りょうが)するのではないかと予感している。