21回 アート部門 講評

審査を通じたメディア 芸術批判と国家への提言

3つ述べておきたい。「落選者へのメッセージ」「アート部門の困難」「国家への提言」である。まず落選、もしくは望み通りの賞に達しなかった作者へのメッセージとして、かつての自分もそうだったのだが応募作を破棄しないようお願いする。萬鐵五郎は生涯最高作のひとつを落選後裁断し、日本美術の損失となっている。また、少なくとも私は3年目の今期を最後に審査委員を退くため、もしあなたが中ザワのせいで落選したと思うなら、来期再挑戦してください。 次に文化庁メディア芸術祭アート部門が、他部門とは本質的に異なる困難をかかえていることについて記す。マンガやアニメーションが、日本国文化芸術基本法や本芸術祭によって、「メディア芸術」(英語で複数形のMedia Arts)の各部門にジャンルごとそれぞれ括られ、振興の対象とされることは喜ばしい。また、娯楽や商用の芸術的表現が、エンターテインメント部門として庇護されることも喜ばしい。一方で、ファインアートの一翼であろう「メディアアート」(英語で単数形のMedia Art)は、メディア芸術の一部門に括られる段階で、結果的に他のファインアートから切り離されている。その証が募集要項の「デジタル技術を用いて作られた」という規定だったが、これが削除されて2年目となる今回も、切り離しが依然として続けられていることが、応募作の全体から感じられた。それは、受賞作すべてがメディアアートの域を出ていないことにも通ずる。切り離しが喜ばしくないことは、三上晴子の「肩書きはアーティストであり、メディアアーティストになろうと思ったこともありません★1」との発言などから明らかだ。娯楽や商用に甘んじず、芸術を芸術としてそのど真ん中から追究しようとするファインアートの側からは、「メディア」という接頭語は不要で、その標榜は言い訳がましい。おそらくそれゆえ、日本の現代美術界にとって本芸術祭はほぼ他人事か、せいぜい新人の登竜門程度の存在感だ。マンガやアニメーションにとっての本芸術祭が、業界の巨匠たちに国家から贈賞がなされる喜ばしい機会であることとは対照的だ。それでもアート部門がメディア芸術に含められるのは、芸術が権威や価値に関わるからだ。その昔、クールジャパン戦略として、日本に長があるとされるマンガやアニメーションを、国が一層、権威強化しようとした。そのとき日本の為政者は、両分野をサブカルチャーとしてではなく、堂々と芸術として価値付けたかったに違いない。ところが西洋に長がある西洋出自の芸術という旧来概念に、まんまと乗っかるのは得策ではなく、また、当時は時期尚早でもあった。これが、両分野を含む日本独自の新概念として、20年ほど前に「メディア芸術」(複数形のMedia Artsはもともと英語には無い)が創出された経緯だったのだろう。すると、この総体を芸術と接続するための保証として、ファインアートの一翼であるメディアアートが必須だったことになる。こうした苦肉の国策が、アート部門の困難として、今日まで皺寄せられているわけだ。これを踏まえた私からの提言は、具体的には現代美術界にとって、本芸術祭が自分事になるよう仕向けてほしいということだ。20年前の枠組は十分その役目を果たし終えたのだから、ひとつめに、アート部門をファインアートの全体としてほしい。募集概要へのサブカテゴリーの列挙をやめればよい。2つめに、募集概要にはむしろ、どういう作品を期待するかという理念を書いてほしい。これら2つは一昨年、二者択一として提言したが、今回は二者両択へと変更する。これら具体的提言の背後には、芸術を芸術としてそのど真ん中から追究しようとする者をこそ大切にしてほしいという国家に対する思いがある。権威や価値の創設に関わる以上、他国を気にしたクールジャパンとかおもてなしとかよりかは、堂々と芸術の語を用い、理念の在処を明示するべきと考える。今期までには叶わなかったが、来期以降、宜しくお願いする。

プロフィール
中ザワ ヒデキ
美術家