15回 アート部門 講評

すべてがメディアアートになる現代と2011 年という節目

岡﨑先生はメディアアートをどのようなものだと考えていますか?
近年メディア芸術の定義は、より不明瞭になってきています。メディア芸術祭が始まった15年前は、デジタル技術を用いた作品はまだ数が少なかったため、おそらく暗黙の前提としてデジタル技術を使った作品=メディア芸術という定義があった。けれど今ではデジタル技術に関わることなく制作される作品はない。当初の設定で言えば、どんな芸術作品でもメディアアートです。他方、例えば現在、Webを用いた作品はすべてインタラクティブであり、同様に展示されれば写真でも映像でもインスタレーションとなるため、これらの概念もまた、ジャンルの定義にはなりません。ゆえにジャンルの区分を無効にするのが現在のメディアアートという呼称とさえいえます。けれど、そもそもメディアとは作品の伝達、記録の形式であって、作品の形式ではありませんでした。いわばメディアアートとして作品を捉える時は、作品そのものの形式だけではなく、作品を取り巻く社会文化関係を必ず含んで見なければなりません。

今年のアート部門の応募作品の傾向はいかがでしたか?
メディアは技術として入力情報=インプットを別の情報に変換しアウトプットする、この変換技術を要点とします。これまでのいわゆるメディアアートは、このインプットとアウトプットの意外な結びつけ方に関心が偏っていました。例えば素材の質感、あるいは映像を音に変換する。けれど変換するだけではもはや新鮮とも感じられず、この変換にいかなる意義があるのかが問われます。また奇抜な変換を行っても結局のところ、作品のアウトプットは映像、音楽、絵画、ドローイングなどの従来のジャンルと当然重なります。今年の審査では、出力情報としてのコンテンツの質が競われるまでの成熟が感じられたと同時に、単なる技術ではなく従来のジャンルとも拮抗しうるクオリティが問われました。テクノロジーの使用はその過程であり、逆にこの過程の特異さを従来の文化への批評として意識化できていなければ、魅力を感じることができません。大賞の『Que voz feio(醜い声)』は2面の映像、音声を併映するだけの手法で様々な差異やズレが生み出す歴史的かつ空間的な奥行きのあるストーリーを浮上させることに成功しています。テクノロジーが実現するような情報の差異の焦点として生み出されるものは想像的な像=思い込みにすぎず、「醜い」という語はこのズレが生み出す想像的な像を適確に示しています。こうした想像的な像をこの作品は相対化し、別の像を詩的な洞察力をもって出現させます。この作品の核となる「ブローチ」こそ、メディアであり詩的言語です。この見えない対象はゆえに複製され得ない固有な経験を私たちに与えてもくれます。

東日本大震災をテーマにした作品もアート部門では多かったように思います。

震災以降、確かに芸術的な感受性が変化したように感じられました。従来のテクノロジーを使う作品には技術の精度、スケールによって人の感覚を圧倒し、脅かし、拡張する崇高な表現も多かったのですが、こういう表現にもはやインパクトを感じられなくなった。例えば津波の映像を見た時に受けた衝撃は、映像としてはパニック映画で今まで私たちが見てきたものと変わらないはずなのに大きく違う。しかし、この違いが表現できない。映画ではどんな恐怖でも終わりがあり最後には観客がそれを快楽に変換できますが、現実は終わらない映画を見続けているようにこの像はいつまでも安定しない。思考、感情の不安定な状況が続くわけです。この揺らぎこそ、それを結びつける別のメディアを要請するものともいえるはずですが。今年選ばれた作品は、インパクト重視ではない分、地味に見えても作品の深さ、批評性そしてコンテンツの精度のレベルも上がっています。複層化した情報環境の揺らぎを捉える編集術の力の差が現れたのが今年の作品群の特徴だと私は思います。もちろん審査は合議制ですから、アート部門の受賞作品すべてを私の視座だけで語れるわけではありませんが(笑)。

メディア芸術祭とアートそのものは今後どのように発展していくでしょうか。
将来、ここに登場した作品群を見るだけでその時代の文化及び歴史的展開が読み取れるアーカイブとして信頼される芸術祭になればよいと願っています。その年の流行ではなく、何がどう未来へと繋がっていったのかを記録していく。例えば震災が起きたことによって、今年の表現は未来の歴史家が必ず調べるものになるでしょう。震災は文化にどう影響を与え、また文化はそれにどう応えたのか、これは現在を生きる私たちにも関心のある事柄です。メディアアートはメディアである以上、その表現には、それを観る人とその反応が必ず含まれます。その意味でメディアアートは歴史の成立そのものを示す力がある。「自立したアート」としてのメディアアートはあり得ない。これが「ジャンルの越境」を意味するのだとすれば、ようやくメディアアートの状況は整ったともいえるのではないでしょうか。

プロフィール
岡﨑 乾二郎
近畿大学国際人文科学研究所教授
1955年、東京生まれ。造形作家、批評家。82年、「パリ・ビエンナーレ」招聘以来、数多くの国際展に出品し、2002年にはセゾン現代美術館で大規模な個展を開催。また同年の「ベネチア・ビエンナーレ第8回建築展」(日本館ディレクター)や、現代舞踊家トリシャ・ブラウンとのコラボレーションなど、常に先鋭的な芸術活動を展開。主な著書に『ルネサンス経験の条件』(筑摩書房)、『れろれろくん』(ぱくきょんみと共著、小学館)などがある。近畿大学国際人文科学研究所副所長教授。