第21回 エンターテインメント部門 講評
ポップ/テック/ トピック
アート部門の選考委員として2年、エンターテインメント部門の審査委員として3年の計5年にわたり本芸術祭に関わらせてもらったが、正直に告白すれば、僕は模型や玩具、本などに囲まれることで幸福感を抱く極度の物質愛好者である。これは美術史を専門とする人間の文系的なマインドセットなのだと観念(化)して自己防衛を図ったりもするのだが、そんな人間が「コンピュータその他の電子機器等を利用した芸術」とこの5年どう向き合い、何を考えたのかについてちょっと記してみたい。 我々はバーチャルとフィジカル、デジタルとアナログを対立的な概念と無意識のうちに捉えがちだが、実は単に表現と伝達の手法が異なるというだけで、もちろんメディアの形式に対しての好き嫌いはあるにせよ、人間が知覚する情報としての差異はない。であるからデジタル技術の発展にともなってニューメディアを用いた表現が現れるのも当然であるし、だからと言って古典的なメディウムを用いた表現と区別する理由も本来はないのだ。しかし、現代という時代とそこに生きる人々にアプローチし、人間、社会、歴史に対するさまざまな問題を浮かび上がらせていくコンテンポラリーアートと、自然現象や人間存在の本質、社会の仕組みを探求するサイエンス、そしてその理論を実用化し、社会へ実装していくテクノロジーとの協働を、デジタルに基盤を置く先端メディア表現が容易にしたことはまた確かであろう。この表現形態はそれぞれの領域が不得意とする要 素を相互に補完し、人間や社会に対する問いかけをよりロジカルに、より実践的な形で機能させていく。専門分化した研究領域を「作品」という形で再統合することで、自己の発見から種としての生態系のビジョンまでをも指し示す、新しい文化領域へと大きく発展してきているのだ。こうした点において「メディア芸術」を独立したジャンルとして支援する意義は充分に見出せるように思う。多くの人が指摘する「メディア芸術」という言葉の曖昧さと、毎年繰り返される出店区分の是非に関する議論もまた、このフレームを越えた表現や価値が次々に創造されていることを逆説的に示すものと言えるだろう。むしろある一定の理論では記述しきれない柔軟な表現の総体こそが「メディア芸術」であると定着づけていいのではないだろうか。AI、ビッグデータ、IoT からゲノム解析やナノテクノロジー、さらにはロボティクスに至るまでエクスポネンシャルに発展を続ける科学技術であるが、一方では常に倫理的な批判にもさらされている。けれどこれまで人類が経験してきた数々の技術革新は、人類の脅威となってマイナスに作用した反面、人間の新たな思考回路を切り開き、新たな文化を築くきっかけともなってきた。未来を無邪気にイメージす ることが困難な今だからこそ、そうした歴史に学びつつ、テクノロジーの社会展開としての「メディア芸術」をとおして人間とテクノロジーのより良き関係性を我々はしっかりと見極めていかねばならないように思う。エンターテインメント部門にエントリーされた作品は他部門に比べ自律性よりも関係性を重視したものが多く、そこで重視される「共感性」には未来を読み解く重要なヒントが隠されていると考え、僕は評価の大きな軸とした。もちろんアイデア、テーマ、コンセプト、表現のセンスやテクニックなど、いずれかが圧倒的に突き抜けた作品は評価すべきであるが、何よりも時代に寄り添う表現には現代的なトピックのみならず、社会や人間の意識のありようなどがさまざまに映し込まれており、受賞作の多くにもその要素は確実に認められる。ゆえに受賞は「結果」ではなく、議論や考察の「出発点」と捉えて欲しい。見る人それぞれの視点で作品から課題を抽出、分析、解釈し、次の時代をイメージ していただけたなら、審査に携わった者としてこれ以上の喜びはない。