19回 アート部門 講評

審査を通じたメディア芸術批判と文化行政への提言

3つ述べておきたい。「落選者へのメッセージ」「芸術原理主義作品への贈賞」そして「文化庁メディア芸術祭への提言」である。
まず落選、もしくは望みどおりの賞に達しなかった作者へのメッセージとして、こうした審査会を契機に過度に自信をなくしたり、応募作を破棄したりすることのないよう申し上げる。若き日のポール・セザンヌは毎回落選し審査長に抗議の手紙さえ書いたが、そういう例もある。
次に芸術原理主義作品への贈賞について。本質追求型の理数系アートであるCHUNG Waiching Bryanの『50 . Shades of Grey』を大賞、山本一彰の『算道』を新人賞とした。ともにスペクタクル性に欠け、大衆の支持も得にくいだろうが、美術は娯楽ではないとするならば、表面的な感覚よりは骨格としての論理こそが芸術原理として追究され表彰されるべきである。本メディア芸術祭に限らず、ここ数十年間の美術界に対する私の不満は、こうした傾向の諸作に対する軽視や無理解だ。私は今年初めて審査委員を務めたが、これら2作への贈賞に力添えできたことを誇りに思う。
その一方で、こうした自身の価値観や審査基準を自問せざるをえない作品に出会うことも現代芸術の容赦なさだ。芸術原理主義とは趣を異にしながら優秀賞となった長谷川愛の『(不)可能な子供、01:朝子とモリガの場合』は、私見では、審査委員を審査していた。
さて私は、メディアアートは美術の一翼であり、メディアアートの「上がり」は接頭語のないただのアートだと考えている。そして私の観測では、10年ほど前からすでにそれは達成されている。それゆえ現行の募集要項にある「デジタル技術を用いて作られた」との規定は、デジタルがここまで浸透した今日、実質的な意味を持たないばかりか、デジタルを使わない美術一般を結果的に排除しており、排除に対する理由が示されていない点で有害だ。
このことは、日本の文化行政にしか存在しないメディア芸術という概念─英語圏では単数形のメディアアートはあるが複数形のメディアアーツの概念はない─が、その理念をすでに喪失していることに敷衍(ふえん)する。本メディア芸術祭においては「デジタル技術を用いて作られたアート、デジタル技術を用いて作られたエンターテインメント、アニメーション、マンガ」、日本国文化芸術振興基本法においては「映画、漫画、アニメーション及びコンピュータその他の電子機器等を利用した芸術」がメディア芸術と称され、美術一般はこの語の範疇から除外されている。
20年ほど前ならば、新興ゆえに美術未満のジャンルと、娯楽やサブカルチャーゆえに非美術の諸分野を、クールジャパン戦略的にひとまとめにして打ちだすことに一定の意義はあっただろう。だがそれは今日通用しない。
したがって私からの提言は次の二者択一となる。
一つめは理念不在のまま門戸を広げる方向だ。デジタルという規定をなくし、美術一般を受け入れればよい。映像との境界があいまいな映画であれ何であれ受け入れ、大衆芸能やテレビ・ドラマ等を対象とする既存の文化庁芸術祭などとも合体すればよい。メディアの語を削除し、文化庁国際芸術祭としてはいかがか。
もう一つの選択肢は門戸を狭めて理念を打ちだす方向だ。ただの美術一般ではない理由を募集要項に盛り込む。デジタルという規定をなくしたうえで、アート部門ではメディア自体を問う芸術原理主義作品へと特化する。美術の語への回収を拒否するゲーム等のエンターテインメントならば、エンターテインメント自体を問うエンターテインメント原理主義、同様にアニメーション原理主義、マンガ原理主義へと特化する。それによって日本製メディア芸術の概念を世界に押しだすのだ。それは「他国から評価される日本」という受動的なクールジャパン戦略を反転した「他国を評価する日本」という能動的な美の価値の創出を目論むこととなるだろう。これをホットジャパン戦略と呼んではいかがか。

プロフィール
中ザワ ヒデキ
美術家