第17回 エンターテインメント部門 講評
モノ飛び交う供宴、物と者と喪の
メディア芸術におけるエンターテインメント作品は複製され広がっていく。同じ環境を用意すれば、いつでもどこでも自由に再現することができる。ただ、鑑賞はそれぞれの生活の場面で行われるため、体験の質を作者が完全にコントロールすることはできない。こうした前提で、複製、拡散の果てにある「個」を見据えた作品に強く惹かれた。『やけのはら「RELAXIN'」』はキュートな映像作品だが、"モノ"のうごめきによって、部屋の主である住人が間接的に描かれている。角度を変えると、それは" 喪"のうごめきにも見える。『rain』の主人公は透明人間で、時に操作しているプレイヤーの知覚からも逃げようとする。『BADLAND』のとにかく生き続けようとする必死な生命体はタフなキャラクターだが、黒い影のままだ。『龍が如く5 夢、叶えし者』では虚構における活動の場すら奪われかねないアウトサイダーたちが活躍している。進行中の社会問題にやわらかく寄り添いながら新しい産業を創出している『東北ITコンセプト 福島ゲームジャム』と、空間における公私の境界を撹乱する『Snake the Planet!』を対になるものと捉え、現実世界とコンピュータゲームの関係について改めて考察してみることも刺激的だ。絵画における「図と地」の概念を本年応募作品の傾向に置き換えると「存在と不在」になるだろう。『Sound of Honda / Ayrton Senna 1989』は、今ここにはいない"者"と戯れることを、圧倒的臨場感で成功させた。思えば不在者との交流は人類の根源的衝動だ。現代の作家は、さまざまなテクノロジーを用いてこれを展開している。それによって私たちは近い将来、死生観を更新することになるのかもしれない。人々が日常的に接しているエンターテインメントがそれをもたらすのは愉快な想像だ。