第18回 アート部門 講評
メディアを批判的に意識すること
私自身は、現代アートを専門にしているわけではなく、普段は写真を中心とした近代における視覚メディア―風景や遺影など―の歴史的・理論的研究を主として行っている。そのような私がメディア芸術祭アート部門の作品の審査をするということは、私自身にとって、メディアとは何かを改めて考えなおす機会になった。
個人的な定義ではあるが、ひとまずメディアアートを、メディアそのものを常に批判的に意識し続けている芸術の総称と考えてみよう。ところが、そもそも芸術作品は、ほとんどの場合、他の文化的制作物と同様、発信者から受信者へ向けて何らかのメッセージを伝達するための乗り物である以上、メディア/媒体ではない作品は、あり得ない。メディアの単数形、メディウム(medium)には、死者の言葉を現世に伝える「霊媒」という意味もあることは、よく知られているだろう(そういった意味で、「メディア芸術」とは、リダンダント[冗長]な言葉であるようにも思える)。
もう少しメディアについて考えてみよう。ルネサンスの幾何学的遠近法によって、世界はメディアという窓を通じて眺められるようになった。遠近法を用いて絵を描くものは、描写対象から隔絶した視点から世界を写す。絵画が完成したとき、絵の前に立つ観者は、作者と同じ視点を共有して、世界を見る。そこで絵画の表面は透明なものになる。19世紀の機械的複製技術としての写真術や映画の発明は、メディアの透明化を促進した。例えば、ある事件の写真を目の前にして、人は事件そのものを見る―写真という媒体ではなく。
その窓がネットワークに接続されたコンピュータのディスプレイ上に開いているような状態になって、既に20年以上経つ。昨今のモバイルデバイスの普及とともに、もはやそれは「ニュー」メディアともいえず、私たちをとりまく空気のようなもの、環境そのものになっていると言える。このように、デジタル技術によって多くの媒体―画像も動画もテクストも音も―は、コンピュータ内の数値に一元化されてきたのである。
一方で、メディアの透明化に抗ったのが、モダニズム芸術であったと考えることもできる。例えば絵画という媒体の固有性―「支持体に不可避の平面性」という物質的条件―を徹底的に追求し続けることが、近代における自律的な芸術を保証するものであった★1。それに対して1970年代以降は、複数の媒体を横断的に使用することが、ごく普通に行われるようになってきた★2。
先程メディアアートを「メディアを批判的に意識する芸術」と仮に定義してみたが、多くの場合、現代のメディア技術を前提にしていることは間違いがないだろう。ただそこで、メディアの固有性に拘泥(こうでい)するのではなく、メディアを批判的に意識の俎上(そじょう)に載せることは、どのようにして可能なのだろうか。今回の審査では、そのためのさまざまな方法を見たような気がする。
特に多く見られたのは、メディア技術と人間の身体の界面を探る作品であった。中でも優秀賞に選ばれた福島諭の『《 patrinia yellow 》for Clarinet and Computer』は、生身の人間による演奏とコンピュータによるリアルタイム音響処理を掛け合わせることによって、不可逆的な時間とサンプリング=記憶という形のフィードバックの拮抗(きっこう)を描き出していた。
メディアの歴史に興味がある私にとって、興味深かったのが、メディアを考古学的に問い直す作品であった。例えば五島一浩『これは映画ではないらしい』が挑むのは、「コマ」という映画の発明以来つきまとってきた最小単位を、光ファイバーと二眼レフのカメラなどの既存の機材を使って、三次元を「二次元にマッピング」するためのオルタナティブなシステムを提示する。そこでは、動画というメディア・システムの誕生が、一種のブリコラージュによって再= 創造されていると見ることもできる。
メディア技術が空気のように私たちの周りに遍在し、環境そのものとなってしまっている現在、そのことと向き合うことの可能性とともに困難さをも、審査を通じて目の当たりにしたような気がする。
★1─クレメント・グリーンバーグ「モダニズムの絵画」(『グリーンバーグ批評選集』藤枝晃雄編訳、勁草書房、2005年、62 ~ 76ページ)を参照のこと。
★2─表象文化論学会編『表象』08(2014年4月)の特集「ポストメディウム映像のゆくえ」(12 ~ 99ページ)を参照のこと。