第22回 アニメーション部門 講評
アニメーションにおける日常のゆらめきとこころのつながり
文化庁メディア芸術祭における本年度のアニメーション作品において、短編では人生のさまざまな困難が描かれていたのに対し、長編でははつらつとした女性によって元気になる人々が描かれていた。アニメーション部門の大賞は短編の『LaChute』であった。この作品のループとなった展開は、人間の生死、天国と地獄を想像させ、人間の営みの全体が象徴的に示されていた。人間の営みをループ状の展開で示すのは、ほかの作品にも認められた。例えば、『Circuit』では出来事がひとつの連鎖をなしており、その連鎖は反復することを示していた。日本の『WATERINTHECUP』もカップの中の水を飲むことをきっかけとしてこころのなかでの反復が描かれていた。この日本の作品は、外的出来事の連鎖を描く外国の作品に比べるとこころの内面を描いている点で特異であった。こうした外国作品と日本作品のあいだの質的な差異は、ほかの側面においても認められる。例えば、困難な体験の描き方である。『Carlotta'sFace』は他者の顔を認識できない障害を持つ子どもの困難が描かれており、いじめや教師の無理解にあったことが示されていた。他者の顔が認識できないということの体験が他者との関係でいかに不条理に満ちているかを実感させてくれていた。新人賞を獲得した『AmIaWolf?』は、舞台で劇を演じる少年が狼に扮して子ヤギを怖がらせてしまうが、その怖がらせてしまった自分をあたかも狼そのものになったように感じてしまう。これら二つの作品は他者との関係のなかでの体験の質は、他者からはうかがい知れない側面があることを示している。これに対し日本の作家の作品は若干異なった色彩がある。子どものアレルギーを扱った『サムライエッグ』では、死につながるかもしれないアレルギー症状が、両親や近所の人の尽力によって対処される。疾患ということではないが新人賞の『透明人間』では、身体が透明であるばかりでなく軽いために重しなしでは浮き上がってしまう人間を描いている。こうした特異な体質は、社会的な無視によっていかに心が傷つくかを象徴的に示している。しかしそれにもかかわらずこの透明人間の行動は、暴走した乳母車の赤ちゃんを助けるというものであった。これら2作品で日本の作品を代表させるわけにはいかないであろうが、それでも日本の作品は援助行動を描くことでこころがつながることを強調する。こころがつながることを描く特徴は日本の長編作品にも見出せる。興味深いのは、こころがつながるのは人間とのあいだだけではないことである。優秀賞を獲得した『ひそねとまそたん』では、航空自衛隊の女性パイロットがドラゴンとこころを通わせていた。同じく優秀賞の『若おかみは小学生!』では、小学6年生の女の子が幽霊とこころを通わせていた。これらのこころの通い合いの経過において多少の困難に出会うにしろ主人公が葛藤状態に陥ることはない。また『リズと青い鳥』では親友のこころのすれ違いを描いているが、彼らのこころのつながりは、友人との語らいによって、容易に回復する。つまり日本の作品ではこころはつながるということが前提となっている。こころのつながりは家族のあいだでも強調される。『未来のミライ』では過去の家族関係ばかりでなく、未来のそれをも見せ、個人が過去ばかりでなく未来の家族のこころの支えによって成り立っていることを示していた。青春期の男女を描いた『君の膵臓を食べたい』においても、母親が、さりげなく青年期の男女のこころを支えていた。これら日本の作品に対しフランスの作品で優秀賞の『大人のためのグリム童話手をなくした少女』では、主人公の女性は、父親や夫との関係を悪魔の手によって断絶させられ、死の危険を伴う苦難の果てに、やっと夫とのこころのつながりを得た。夫婦のあいだにおいてもこころがつながるのは奇跡的な出来事であった。こうしたこころのつながりにくさは、こころがすぐつながってしまう日本の作品のなかにおいては独特であった。