第16回 アート部門 講評
「切実さ」への共感
電気を使うことが、遠い未来にまで続く核廃棄物処理の問題と結びついていたことを思い知らされた3.11以後、電力を前提とした芸術表現というものを考えることなど可能なのだろうか? 情報ネットワークに包囲され管理されて生存を続ける僕らは「自由に」何かを創造することなど本当にできるのだろうか? そのようなことを考えざるをえない日々のなかでの作品審査は、それらの問いに対する世界中の作家たちからの応答を求めるような作業だった。何かしらの「答え」や未来への可能性を探したのではない。そうではなく、「僕らが今手にしているテクノロジーとともに"あなた"はどのように行動したのか?」と彼らに問いかけたという意味である。そこではもはや(西洋)芸術史のなかでのみ語られるような「美」という価値は意味をなさない。問われているものは表現に対する作家の「切実さ」のみである。もちろん、作品である以上 、アイディアの独自性やそれを実際に「やってみせる」意志と技術、「才能」などと呼ばれる、他人には真似のできないセンス、そして「結果としてうまくできているのか?」、すなわち完成度などの評価を度外視することはできない。しかし、たとえこれらのすべてが揃っていたとしても、表現に対する「切実さ」、つまり作家の内なる必然性なくして芸術は成立するはずはなく、たとえ「評価」はできたとしても、僕らは心の底から作品に「共感」することはないだろう。......このように書くと何か生真面目で難解な作品ばかりが選ばれたように思われるかもしれないが、結果は発表されたとおりである。喩えて言えば、ある厳しい状況に置かれた時、人は号泣することもあれば、顔色ひとつ変えないことも、また大笑いしてみせることもあり、それらはどれも間違ってはいないはずだ。
今回の審査は僕にとって、そのような彼らの「切実さ」に対する精一杯の返答だった。