第17回 アート部門 講評
テクノロジーから視た人間世界
古今東西の音楽でも美術でも、そしてメディアアートと呼ばれるものでも、芸術の体験とは「鑑賞」などではなく、作品に「立ち会う」ことであるに違いない。立ち会うとは、観るものが遠くから眺めたり値踏みしたりするのではなく、逆に作品の世界に没入するのでもなく、ある見知らぬ出来事に出くわし、目撃し、その証人になることを引き受けるという意味だ。しかし、それは何の証人なのだろう。いや、一体誰が誰に対して何を証すのか。うまくは言えないが、今回選ばれた作品はどれも、僕らにそこに立ち会うよう強く求めていた。例えば、もはや歴史となりつつある黎明期の「装置による表現」。すなわちメディアアートに対する内省的なオマージュや自己言及であったり、あるいは、不定形な空虚の象徴である気泡を電気仕掛けで生成し続ける「装置それ自体」などである。
更に、この地球で起きているさまざまな現実に向き合うことを余儀なくされる作品にも注目が集まった。武器売買を巡る証言の中に投げ込まれる拡張現実空間内の演劇であり、無人爆撃機に関する情報と衛星写真を刻々とアップロードしていくウェブサイトであり、また、ネット上の情報をクラウドソーシングを利用して編纂した「地図帳」などである。
大衆化した最新テクノロジーや機械的なシステムが、このような作品が生まれる土壌を整えたわけだが、そこで使われているテクノロジーの起源をたどるとき、僕らはまさに、作品で扱われている現実─兵器開発─に行き着いてしまう。少なくともそれらの作品は、特定の国家の不正を暴露しようなどというちっぽけなことを目指してはいない。そうではなく、作家たちは「途方もないテクノロジーを手にした僕たちは今、この地球上で何をしようとしているのか?」と何者かに向かって問いただしているように見えるのだ。世界経済とテクノロジーが国家や文化の固有性を超えてしまった現在、世界中の人々が「テクノロジーから視た人間世界」による「芸術」に一縷の望みをかけているのかもしれない。作家の正義感や政治的信条などを超え、僕らは見知らぬ作家の冷静な問いかけに言葉もなく、ただ「立ち会う」ことになる。今、この瞬間にも無人爆撃機が作戦を粛々と遂行しているかもしれないという可能性の下で。