第23回 アート部門 講評
無意味さのメカニズム
学校では日本語が論理国語と文学国語に分けられ、あいちトリエンナーレが会期中に国からの補助金を取り消され、バンクシーのネズミを壁から引っ剥がして来て都庁で公開する。そういう時代に僕らは生きている。芸術とは何か、といったことに興味はないが、しかしそのような社会情勢下での芸術祭であることは頭のなかに入れておく必要はある。そんな状況で始めた審査であったが、作品には救われた。アーティストは作品をただ見てほしい、聴いてほしいという純粋な気持ちで送ってくるからだ。残念ながら今回は、大きく心にくる作品は少なかったという印象だ。どこかで見たものの焼き直しや、これまでの延長のような作品が続く。メッセージ性がないと嘆く審査委員もいる。しかし僕は、メッセージ性のないことこそが、この時代のメッセージとして評価できると思う。人の知覚のスケールを超えたもの、一言で言い尽くすことのできないほど複雑なもの、人の解析をゆるさない詳細なデータで出来上がったもの、それらは人間抜きの現代の象徴だ。このマッシブで、まとめようがないもの、それがポスト人類史にはふさわしい。今回の作品群のいくつかには、それを体現していてくれたものもあった。例えば270個のゴミ袋をゆっくりと収縮させている作品『Two Hundred and Seventy』などは心に残った。芸術というのは、当たり前に既存の枠の外に出るもの。枠をはめられることを嫌がるものだ。芸術は腹のなかに制御できないものを抱え込むことだ。そのことは変わることはない。メディアアートもまた例外ではない。そこにあるのは、生命であり、美と死であり、文学と嘘である。ちょうどこの文化庁メディア芸術祭の募集が行われていた時期、岡山芸術交流ではピエール・ユイグが、生命の解消されない不穏さや計算不能性を扱った作品を展示した。そこにはかつての内部観測やオートポイエシスと通じる現代的なテーマが見て取れる。変遷するメディアアートの姿を来年は見られるだろうか。