第19回 アート部門 講評
考える時期
1960年代に電子音楽に出会った。次々に未知の音響をつくりだすことができる電子音楽に、これほど可能性に満ちたものはないと興奮していたが、しばらくいろいろな作品を聴いているうちに、電子音楽で制作されたものはどれも「電子音楽っぽい」と感じるようになった。それは、装置を使いこなしているのではなく、装置に使わされているだけなのではという疑問になった。そんなときに小杉武久の作品に出会った。彼はポケットラジオや扇風機、釣竿といった日常のオブジェを使い、魅力的な電子音の世界をつくりあげていた。小杉は何でもないテクノロジーを見事なまでにしなやかに使いこなしていた。それから私は、身体とテクノロジーの関わりあいについて実験的に取り組むことこそが、アートに求められることではないかと考えるようになった。あれから半世紀ほど経過した現在、テクノロジーは目覚ましい進歩を遂げて、表現の可能性は60年代に比べ飛躍的に向上している。しかし、人間とテクノロジーの関わりに関しては依然60年代とあまり変わらないと私には思える。今回多くの応募作品を体験してみると予想通り「メディアアートっぽい」作品が目についたが、同時に、そういった状況に疑問をもちながら新しい展開を模索する作品が意外に多いことに驚き、興味を掻き立てられた。それらの作品は決して派手な表現ではないため、短時間の審査の過程では不利である。しかしこのようなアーティストたちの実験的な試みが繰り返されていくことにより、私たちの生活に向かい合う「メディアアート」という肩書きを必要としない表現が生まれる予感を抱かせた。60年代、電子音楽を始めとする当時の最先端の機器を使用した音や光の表現は「インターメディア」「マルチメディア」と呼ばれていたが今は誰もその名前を使うことはない。同じように「メディアアート」という言葉も使われなくなったときに初めて地に足をつけることになるのであろう。