第22回 アート部門 講評
狂気性を孕んだアートはどこへ?
今年初めて文化庁メディア芸術祭の審査に関わらせていただいた。アートの審査は科学研究の審査とは異なり、明白な基準を持つわけではない。かつ映像やインスタレーションから、モノや写真まで応募作品は多義に渡る。膨大な応募のなかから優秀作品が選べるものかと危惧したが、呆然として作品を見ていくと、だんだんとその違いが見えてくることに気が付かされる。やむにやまれずつくってしまったもの、賞を取ることを狙ったもの、手法が先行するもの、偶然性から生まれたもの、批評性のあるもの、強度のあるもの・ないもの......その違いは映像かサウンドの作品かインスタレーションかといった作品の種類にはよらない普遍的な要素である。そうした点がわかったとたん作業が進みはじめる。現代は強く新しい技術が台頭した時代である。インターネットに始まったその流れはブロックチェーン、ビッグデータ、深層学習、AIと次々に人の理解を超えて作動するシステムが生まれてきた。そうした先端技術は当然のごとく多くの作品に影響を与えている一方で、作品には技術とは関係のないところで蠢く恐さが必要なのは言うまでもない。先日Twitterで東京大学教授の稲見昌彦さんがつぶやいていた。最近は恐ろしい作品には出合わなくなった。むしろ応援したい作品が多いと。そのとおりである。アートは応援されるようでは駄目なのではないか。今回の審査でも多くの「応援したくなる」作品群に出合った。そこには既存のアート作品を叩き潰すような暴力性は存在しない。むしろ技術にひれ伏すか、きれいにまとまった作品が多かった気がする。2000年くらいのメディアアート、特にサウンドアートのシーンには怖いものがあった。国内外ともに、狂気の息吹が確かにそこには感じることができた。最先端の技術はつねに狂気性を孕んでいる。手懐けるのは容易ではない。しかし仮に狂気の目が再びメディアアートに出現するとしたら、それは新たな技術との戦いにしかないと思う。それを来年以降に期待したい。