22回 受賞作品エンターテインメント部門Entertainment Division

大賞

優秀賞

新人賞

審査委員会推薦作品

審査講評

  • 遠藤 雅伸
    ゲームクリエイター/東京工芸大学教授
    人を楽しませるつくり手の意志と芸術表現
    エンターテインメント部門は作品の形態が多岐にわたる。それゆえ他にははまらない形態の作品が集まり、異種格闘技的な混沌が生まれる。そのなかで審査の方針としたのは、エンターテインメントとして人を楽しませようとするつくり手の意志と、芸術としての表現で、作品の評価には2つの側面がある。そして技術的なアプローチの独自性にも注目した。特に技術を無駄遣いして、受け手にスゴい物をそれと気付かせずに見せる所には共感させられた。今回大賞となった『チコちゃんに叱られる!』は、振り切れたキャラクターをCG技術で自然に見せ、テレビ放送というメディアの大衆性にマッチさせた、良質なエンターテインメントであった。二頭身のデフォルメキャラは、日本では広く使われる可愛い表現だが、等身大にするという発想の転換を技術が後押しして、魅力的に仕上げている。「ボーっと生きてんじゃねーよ!」が流行語大賞にノミネートされたのも、本放送より再放送の方が視聴率が高いのも、テレビという媒体が終わっていないことを感じさせた。気付かれない技術として、『LINNÉLENS』もAIを応用し、水族館や動物園の見方に違和感なく革新をもたらしている。サーバーに接続しなくても機能する部分は、情報端末の技術向上による。これは技術が進歩する限り、メディア芸術には新たな可能性があることを示唆している。逆に誰にでも分かる力押しな見せ方も、素直にその凄さを認めた。『Perfume×Technologypresents"Reframe"』は、ステージを構成するセットをブロックごと動かし、そこにプロジェクションマッピングで世界を創る荒っぽい手法だ。これはPerfumeだからこそ成り立つのかも知れないが、それゆえ作品として見ごたえがあった。エンターテインメント部門には6つの作品形態があるが、複数にまたがったり、この枠に収まらない作品も多い。『歌舞伎町探偵セブン』は、「代替現実ゲーム」の一種である。しかし演劇的な表現や、歌舞伎町の不動産を有効利用し参加者に街を徘徊させるコンセプトは、空間表現に相応しい。このような作品は、応募する方もどの分野で応募するか迷うところだと思う。しかしどんな作品であれ、エンターテインメントの範囲であれば、必ず正しい評価ができる審査体制なので、むしろ審査委員を悩ませるような問題作に期待したい。一方『TikTok』も最後まで議論された作品だ。これはアプリケーションで応募されているが、純粋にエンターテインメントを目的としてつくられた物ではない。むしろ参加者がコンテンツであり、コミュニティも含めてエンターテインメントとした、今年を代表するムーブメントだ。新しいメディアが、それ自体はアートではないとしても、エンターテインメントなアートを生み出すツールとして文化的なシーンを創る形は、メディア芸術祭でこそ評価すべきと我々は考えた。今後も新たなメディアが生まれるのが楽しみである。若いアーティストの思いを、新人賞では大きく評価している。技術的は稚拙であっても手づくり感溢れる作品には、作者の今後の成長が期待される。実写の動画作品は映像分野へ応募されるが、短編映像2作品には作者の思いを強く感じた。『水曜日のカンパネラ「かぐや姫」』は、不思議な衣装と非CGの表現に、手の届くところでつくり切る良さを感じた。『春』は、設定のリアルさとナマな老人の演技が魅力的であった。文化庁が主催するコンテストとして、日本文化にフォーカスされた外国人作品は、今後の応募に対する指針とする意味でも高く評価した。『PixelRipped1989』の作者はブラジル人女性であるが、作品は日本の80年代ゲームへのオマージュが感じられた。VRを利用しているなど、まとまりのある作品で古さは感じられず、むしろ今ならありがちなシステムである。しかし、作者がゲームキャラクターのコスプレでプロモーションをしている姿は、ゲームのみならず日本のポップカルチャー全体への愛が感じられた。
  • 齋藤 精一
    株式会社ライゾマティクス代表取締役/クリエイティブディレクター
    道具としてのメディアの時代
    メディアはインフラやガジェットの変化とともに、変化・進化してきた。メディア表現、特に芸術の役割は、そのメディアをどのように進化させ、どのような可能性があるのかを探求することにあると言われ続けてきた。何が芸術で何がエンターテイメントなのか、その境界線はどんどんと曖昧になり、その結果として商業的にアートを語られるようにもなった。今年のエンターテインメントの受賞作品を見てもわかるように、大きなうねりであるメディアの進化を一区切り置くようなラインナップになったと思う。人はデジタルに行き過ぎるわけでもなく、テレビを忘れることも無く、物理的な体験や見る体験を求めている。メディアが「消える」、バーチャルに「集約される」などと言われてきた過去もあったが、今の時代まで長く進化を続けたメディアも近年のデバイス・テックの進化によってできたメディアも均等に、知らずのうちに評価され、それらが混在する時代を迎えたかに見える。これは「テクノロジー」というバズワードによって、予測不可能とされてきた分野が中和して道具になったことを意味するようにも感じる。エンターテインメントはアートとは違い、万人に向けて発信されるものであり、使える状態にあるもので、エンタメ=楽しさを入り口にすることで複雑さや文脈を容易に取り込むモチベーションを与えてくれるものである。近年のテクノロジーの目新しさではなく、表現するために何の技術が必要なのか、消費者やマーケットは何を求めているのかなど、バックキャスト的な発想がある。まさにメディアがエンターテインメントに融合したひとつの大きな進化だと思う。表現者と消費者の関係がさらに近くなり、多くの人が表現できる時代になった今、エンターテインメントの分野が今後どのような進化をとげるのか。予想するのは難しいが、個人的に今後、人はますます体験を求めるようになる気あする。人間は人間らしく記憶のソース=体験を求めるのは自然なことで、テクノロジーがその体験をより強く新しいものにしてくれるような気がしてならない。
  • 佐藤 直樹
    アートディレクター/多摩美術大学教授
    エンターテインメントの新機軸とは
    文化庁メディア芸術祭が応援すべきエンターテインメントとはどのようなものか。言葉のうえでの定義を擦り抜けていくものがエンターテインメントである以上、この問いに答えることは容易ではない。ただ、『チコちゃんに叱られる!』と『TikTok』が大賞を争った論議は有意義なものに思えた。『チコちゃんに叱られる!』は長く続いてきた日本の「お茶の間」がまだまだ健在であることをあらためて浮き彫りにした。この作品の素晴らしさは、これまでの「日本」のマスコミュニケーションの延長線上にありながら、新しい技術による新しいやりとりを生んでいる。ただ、今後例えば人々の文化背景が複雑化になっていったとき、このような「ウケ方」が今後の社会でも続くのかまではわからない。一方、『TikTok』にはエンターテインメントの世界性を問うものとして審査委員のすべてが強い興味を抱いていた。しかし、応募はJapanチームによるものであり、国境を超えた『TikTok』そのものの力をどう捉えて展開しているのか、というところまでは不明であった。つまり、「日本の公共放送」と「インターネット上の日本」のバトルになったわけだが、いずれにしろ問題は「大きな背景を持たなければこの場所に立てない」ということだったのである。メディア芸術祭は、日本のエンターテインメントにとっての2018年という年を、そのように記憶させることになった、と言っていいだろう。ここで最初の問いに戻る。メディア芸術祭が発足した1997年ならば、来るべきネット社会のなかで日本のエンターテインメントはどうあるべきか、世界で負けないコンテンツを生み出すにはどんな力を育めばよいのか、といった基準から新しいつくり手を世に送り出すための一助になればよかったのかもしれない。しかし、ネット社会はとっくに到来し、エンターテインメントの実験も世界中で無数に行われているのだ。メディア芸術祭は、新たな方向性を打ち出す時期に来ている。自らの存在証明とともに。
  • 川田 十夢
    開発者/AR三兄弟 長男
    時代を反映したショーケースとして
    テクノロジーをテクノロジーとして楽しむ季節はとうに過ぎて、物語や生活にナチュラルに溶け込んだ作品が際立っていると感じた。技術のつなぎ目、結び目が見えないからこその没入感。それをうまく日常と地続きに接続する手腕とアイデアが問われている。奇しくも平成が終わるタイミング、より表現の自由化が進んでいるようにも感じた。『TikTok』のようなアプリでは、映像作品はコミュニケーションの手段という位置付けになる。そのメッセージは刹那的で、かつての映像作品に見られるような長尺の社会性は内在していない。この分岐点を文化庁メディア芸術祭の審査会として無視することができなかった。『チコちゃんに叱られる!』のようなテレビ番組が大賞に選ばれたのも印象的。前述の通り、技術のつなぎ目が見えないからこそのキャラクターの振る舞いがチャーミングで、現代的なアプローチだと感じた。メディア芸術祭の常連でもあるPerfumeと制作チームの作品は別格で、これが最初の応募であれば十分に大賞候補であったと思う。国内外の注目を浴び続けながらも、自らの作品群をストイックに更新しようとするその姿勢に、頭が下がる。アートに偏ることなく、エンターテインメントとしてちゃんと機能している。『LINNÉLENS』と『歌舞伎町探偵セブン』、空間演出の分野でデジタルとアナログの両端が同年に優秀賞に選ばれたのも、単なる偶然えはない。ソフト面での創意工夫の必然があった。推薦作品は、新しい視点と質感に目を向けた。それぞれに魅力的で、続きが見たいユニークなものばかり。このコメントを読んでいるあなたにとって、メディア芸術祭がひとつの登竜門として、あるいはショーケースとして機能し続けることを、半分は当事者として願っている。
  • 中川 大地
    評論家/編集者
    昭和を終わらせられなかった平成の終わりを象徴する大賞
    『チコちゃんに叱られる!』の大賞授賞を避けられなかったことは、かえすがえすも残念でならない。もちろん、例年の大賞ラインナップの水準に鑑みた場合、時代を象徴する話題性やポピュラリティの面で、本作が優秀賞の『TikTok』とならんで双璧をなしていたことは間違いない。片や、着ぐるみの挙動をトラッキングしてキャラクターの表情をCGでマッチムーブするという先端的な映像技術を駆使しながら、手練れのテレビマンたちがお茶の間向けにつくり込んだ「最も成功したVTuber」コンテンツとして。片や、スマホの利用環境に最適化したショート動画コミュニティの巧みな設計によって素人の発信ハードルをさらに下げ、大人たちが思いもよらないティーンズ文化の流行圏域を出現させた特異なコミュニケーション・プラットフォームとして。見事すぎるほどに対照的な性格を背負った両作のどちらを大賞に推すかで、最終審査会は大いに紛糾した。筆者の信念としては、文化庁メディア芸術祭が未来に向けたあゆみに価値を置くならば、大賞は当然後者であるべきだった。だが、中国産のアプリを日本向けにローカライズしたにすぎない後者に対して、前者の方が応募主体の創意がわかりやすい「作品」だし、授賞によるクリエイター支援の意義が明確だという審査意見の大勢を覆すことはできなかった。そのこと自体はメディア芸術祭の制度特性上、もっともな結論であると呑み込むほかなかった。『TikTok』ムーブメントを積極的に推せるだけの説得ロジックまでは、さすがに自らは当事者ではなかった身の見識不足で見つけ出せなかったためである(こちとらも所詮、四十路も半ばのオッサンなので......)。しかしながら、それでも昭和末期のフジテレビ的な民放バラエティセンスを今更NHKに持ち込み、ベテラン芸人の加齢臭しかしないゲストいじりトークを、幼児キャラクターのガワの力で「ちょっと耳年増な5歳の子の稚気」として誤魔化すこの番組の基本設定は、どうにも醜悪に過ぎよう。そのフォーマットに載せて繰り出される「大人なら知っていて当然の素朴な疑問」への回答トリビアの数々を「諸説あります」などと逃げを打ちながら断定調で叩きつけるあたりの身振りも小狡い。それぞれ一歩間違えれば、バラエティ発のいじめ助長の空気形成だったり、偏った学説演出による情報番組系のデマ拡散だったり、平成年間に何度となく問題になったテレビエンターテインメントの悪癖と同根の構造を抱えた代物だ。もっとも裏を返せば、そうした民放バラエティ型の失敗に学び、NHKの制作環境とテクノロジカルなキャラクター演出の媒介で(今のところは)ギリギリ回避しているのが『チコちゃんに叱られる!』の巧さとも言える。だから上で述べたdisは、すべてそのまま贈賞理由に転ずる。そう得心してしまっているがゆえに、あれ以上は審査会で頑張れなかった自分が、とても悔しい。ただ思うのは、そのような昭和期の旧体制の延命のみにしか新しい技術を有効に使えないネオテニージャパンの限界を、『チコちゃんに叱られる!』はこの上なく象徴していたということ。冷戦後の政治経済の明白な失敗に頬被りしながら、自分だけは無垢な幼児に退行したフリをして安易に捏造した「正解」に自閉しつつ、「ボーっと生きてんじゃねーよ!」などとすべての日本国民を罵れるメディア人の、なんと多いことか。そんな平成日本の転落の最大限アイロニカルな自画像という意味の大賞であることは、くれぐれも強調しておきたい。ひとつ希望を見出すなら、奇しくも日本での平成初年にあたる世界にゲームの力で介入して想像的にリニューアルするインディーVR作品『PixelRipped1989』を新人賞にできたのは大収穫だった。願わくば、次の時代からこそは、避けられない衰退の現実を直視して有効なテクノロジー運用で処する、本当の文化成熟と更新の始まらんことを。