20回 受賞作品エンターテインメント部門Entertainment Division

大賞

優秀賞

新人賞

審査委員会推薦作品

審査講評

  • 東泉 一郎
    デザイナー/クリエイティブディレクター
    創ることへの発見と確認
    世界は、時代は、この先どこへ向かうのか?社会のうねりも、テクノロジーも、現実の世界が、アートのイマジネーションですら想像が及ばなかった方向へ、どうにもならない力を持って、ドライブしていく。世界のパーソナルな、ローカルな情報が瞬時に共有される時代......それはオープンな時代であると、夢想されてきた。でもそれは、世界から秘境がなくなり、世界の有限性を意識していくことでもあった。フロンティアの喪失が現実になったとき、人の創造性は、その閉塞感を突破できるのだろうか?アートとは、「何かを指し示す指先」のような役割を持つもの、とはよく言われてきたことだ。あるいは、先進的なデザインもまたそう言えるかもしれない。モダニズムの時代に夢見たような、人間が洗練と成熟に向かう未来像は壊れたのか、あるいは脱皮の前の変節期の混沌なのか?このようなときにこそ、大量の大きな声にかき消されそうな、小さく繊細な、多様な声を見つけては拾い上げていくことは、後に大きな意味を持っていくだろう......。表現の世界においても、科学や発明の世界においても。異端が次の時代をつくっていく。そのような思いを傍らに、今回の文化庁メディア芸術祭の受賞作を見渡すと、メジャーな商業的作品群に圧倒されたかのようにも見える。それぞれ素晴らしい作品たちだ。そしてまぎれもなく、2016年というこの時代の表現のひとつの到達点を表わすものだといえるだろう。と同時に、フェスティバルの来場者が未知のものへの発見を求めてはるばる足を運ぶのだとすれば、その思いに応えられていないのではないかという自問は残る。これは作品に責任があるのではなく、私たち審査する側―というのも僭越な言い方だが―の価値観と見識の暴露だ。今回の選考は、「時代の確認作業」のようなものだったと言えるだろう。そのような確認作業の一方で、メディア芸術祭が時代を映す鏡だとしたら、鏡の向きをほんの少し変えることで、反射した光が照らし出すその先を方向付けることもできるのではないか、という思いがある。鏡が、手前にあるものを大きく映す静的なものなのか、何かに光を当てて照らし出すものなのかは、その鏡の置き方による。新しい価値、新しい方向へ「こっちを見て」と、そっと指し示す指先であれたらと思う。そして、物や表現が置かれる場、時代やコンテクストの問題。対象となる創作物そのもの以上に、その背景や周囲の環境が重要、という場合がある。なんでもない周囲が、その中にある対象物に価値を与える。「荒漠たる砂漠という背景」が、ピラミッドに単なる四角錐という以上の感動を与えているように。作品のなかには、時代の状況、時代の空気、時代の記憶として、とどめておきたい、とどめておくべきものがある。大多数の作品というものがあってこそ、ユニークなものがユニークな存在として気づかされる。それらの対比をどのように記録し残していくか、そのような葛藤は募る。既存の流れの延長で「捻り」を効かせていくやり方は出尽くしたというのが、昨年から今年にかけての印象だった。想像を超えるダイナミズムで動いていく現実世界......そこから去来する「新しい気分のようなもの」、そして「その先のあたりまえ」。今は、何か破壊的な突破力を持った創造性がかさぶたの下で育っている時期のような気がしている。人によって物、事、思想、表現がつくられ、目に触れ、耳に聴こえ、手に取られ、感じられることは、直接的な作用だ。作品は、生み出され、伝わった時点で、すでに意味を持ち、役割を果たしている。では、つくられた物をさらに敢えて評価することの意味についてはどうだろう?私は、それはやはり、新しい価値や視点を見出し、提示し、先を照らしていくことだと思っている。それを続けていくと、芸術祭というものが、未来の世代を育み、ひいては世界を持続させていくための、文化の畑になっていくと思うのだ。
  • 米光 一成
    ゲームデザイナー
    怒涛の討議の果てに
    大賞は『シン・ゴジラ』『Pokémon GO』『岡崎体育「MUSIC VIDEO」』だ。異論はあるまい。と思って最終審査会に臨んだ。がそもそも大賞はひとつ。3つ取ることはありえない。とはいえ、このうちのどれかだろう。比べようがない。映像作品、ゲームアプリケーション、ミュージックビデオと、カテゴリーも違う、ジャンルも違う。目指すベクトルも違う。優劣の差はない。走り幅跳びと新体操とサッカーを比べるようなものだ。そうなると大賞として何がピタリとハマるかを考えるしかなく、審査委員各々がこの賞をどう捉えているかという合戦になると予測していたが、それどころではなく3作品以外を推す流れもあったり、大賞作品ナシはどうか等、怒濤の討議となった。私も年齢を重ね大人になったので興奮して喋ることもなくなったと思っていたが、久しぶりに早口で主張し捲したてた。おお、巨災対の一員になった気分。エンターテインメント作品にとって重要な年である2016年を象徴し代表する作品がこんなにもあり、これからのエンターテインメントに大きな影響を与える作品群がここにあるのに大賞ナシなんていうのは許し難かった。議論は紛糾したが、しっかり意見を戦わせることもでき、大賞、優秀賞、新人賞に素晴らしい作品が選ばれたことを喜んでいる。受賞作以外にも『ウイニングイレブン 2016』『LineFORM』『NARUTO-ナルト- 疾風伝 ナルティメットストーム4』『Rez Infinite』『TTT (Table Tennis Trainer)』『GIGA SELFIE』『スマートフットウェア Orphe』『スピードチェス』等、素晴らしい作品が多かった。審査委員会推薦作品に入らなかった作品のなかにも良質な作品はあった。小さいけれど精緻につくり込まれた良質なゲームは、審査会という形でうまく良さを主張することができず残せなかった。審査は、絶対的な判断と基準によってなされるものではない。真摯に取り組んだが、審査という行為そのものの限界を感じながら、だからこそやる意味があるのだとも思った。
  • 佐藤 直樹
    アートディレクター/多摩美術大学教授
    来るべきエンターテインメントへ向けて
    「メディア芸術」の「エンターテインメント」部門という枠組み自体が限界に来ているのではないかという感想を持った。デジタルメディアが急速に発達したこの20年の歴史的な特殊性を考えれば、「メディア芸術」という設定には納得できるし、そのなかで「エンターテインメント」がいかなる方向に進むのかも大きなテーマであったと思う。それまでの「エンターテインメント」はデジタルメディアの存在を抜きに発展してきたわけだから、ただなりゆきを見守るだけではなく果敢なチャレンジを積極的に称揚することの意義は大きかっただろう。昨年の大賞を知ったときにもそのことを強く感じた。けれども、私自身が初めて審査をすることになった今年は、むしろ「エンターテインメント」のあり方自体を捉え直す必要を感じた。そのことが炙り出される結果が出たように思う。選別のための厳密な定義付けをすべきだと言うのではない。定義なら「人々を楽しませるもの」くらいで十分だろう。問題は今の時代の「楽しみ」とは何かということで、「コンテンツ」を求める人の数をその消費に疲れ始めた人の数が上回ったとき―それが今なのではないかと思うのだけれど―、次に来るべきものは何なのか、と考えさせられた。昨年の大賞『正しい数の数え方』の岸野雄一が実践しているコンビニDJなどはその意味で大きな価値転換をもたらしていると思っていたが応募はなかった。ほかに今年の事象でいうと、『この世界の片隅に』(監督:片渕須直、原作:こうの史代、2016)の原作からクラウドファンディングを経由して劇場公開の商業映画として成功したことの、その「流れ」に大きな希望を感じた。応募という行為に結び付きようのない、人のつながりの全体性が備わっているように思ったからだ。そういった部分にも光を当て、新しい評価軸を顕在化させるにはどうすればいいのか。ただ応募を待って応募してきた人に賞を出すというあり方も含め、新たな転換期を迎えているに違いない。
  • 工藤 健志
    青森県立美術館学芸員
    転換期?のエンターテインメント
    2016年はのちに時代の重要な転換期と位置付けられるように思う。東日本大震災から5年という節目に起こった熊本地震は再び「日常」の脆弱さを我々に突き付けた。世界では各地で続く紛争と移民の社会問題化。さらにEUの混乱、扇情的な政治家の台頭、市場経済の飽和など、これまでの枠組みや価値が次々と行き詰まりをみせた1年であった。テクノロジー分野に目を向けても、AIという一種のバズワードがディープラーニングやIoTによって具現化されたり、ソーシャルロボットやVRが普及するなど、人間を取り巻く環境も今後加速度的に変化していくことが予想される。今回の応募作にも、今日的な社会問題をテーマにしたものや先端のテクノロジーフォーマットを用いたものが多数見受けられたが、技術をどうコンテンツへと落とし込んでいくかはまだ模索段階にあるように感じられ、テクノロジー作品における「先端性」と「成熟度」の兼ね合いの難しさを改めて痛感させられた。テクノロジー×コマーシャル作品の多くも視覚的な進化は認められるものの、「見る」という行為の質の深まりについては―コマーシャルであることを差し引いても―やや疑問が残った次第。そんななか、「あるあるネタ」で攻め抜いた『岡崎体育「MUSIC VIDEO」』は卓越したセンスと表現力があればバジェットの大小を問わず魅力的な作品が生み出せることを実にあっけらかんと示してくれた。本作の新人賞受賞は個人で活動する作家の励みとなるのではなかろうか。そして社会現象となった『シン・ゴジラ』の大賞と『Pokémon GO』の優秀賞受賞。前者がオマージュ、引用、パロディといった手法を駆使し、コマーシャル作品でありながら戦後日本の「総括」をなしえたとすれば、後者はキャラ文化を用いてモバイルという概念の本質をより広く一般に定着させ、身体とテクノロジーの関係の「未来」を示してくれた。2016年という「区切り」の年の象徴として、この2作品はこれから長く記憶されていくことだろう。
  • 遠藤 雅伸
    ゲームクリエイター/東京工芸大学教授
    見せたい芸術より見たくなる娯楽
    今回初めて審査を担当したが、エンターテインメントと部門分けはされているものの、その作品の幅の広さに異種格闘技戦の如き混沌さを感じた。作品を見る基準については、アートと別にされていることを考慮して、大衆に理解できる娯楽であることを第一に考えて拝見した。さらに、日本から発信するにふさわしい際立ったコンセプトを持っていること、見る人に驚きを与える可能性を感じることを念頭に、迷ったときは自分が体験してみたい作品、自分の体験を人に教えたくなる作品を高く評価した。メディア芸術という括りで見ると、やはり技術力の高さを持ちながら、それを感じさせずに当たり前のような印象を与える作品の、技術を無駄遣いしている感覚が好ましい。その結果として受け手に感動を与える、まるで手品を見ているような不思議な体験をしてもらう、良い意味で呆れられるあたりがエンターテインメントの真髄ではないだろうか?そんな意味で人間の知覚に関する2つの受賞作品『Unlimited Corridor』『NO SALT RESTAURANT』は一見して「本当?」と疑いたくなる内容だが、技術に裏打ちされた説得力を持っていた。前者は人間が本能的に身の安全を確保しようとするしくみを逆手に取り、絶対的に信頼できる触覚に頼るよう誘導することで、自己主体感を損なわずに体感を操作している。後者は味覚には偏りがあることを利用し、塩味に限定してはいるものの味覚ディスプレイとして、生活に潤いを与えるという実用性を持たせていることに、大きな意義を感じた。また大賞となった『シン・ゴジラ』については、エンターテインメントにおける日常との接点をフックにした、代替現実的な体験を評価した。ちょうどゴジラの進行エリアが自分の生活圏内と被るため、出かけずして聖地巡礼的体感もあり、無人在来線爆弾には良い意味で呆れさせてもらった。審査は物量的に大変だったが、興味あるたくさんの作品をありがとう。