20回 受賞作品アート部門Art Division

大賞

優秀賞

新人賞

審査委員会推薦作品

審査講評

  • 森山 朋絵
    メディアアートキュレーター/東京都現代美術館学芸員
    メディアアート/メディア芸術、次なる10年のために
    審査を終え、いま「メディアアート/メディア芸術」は、ある文化領域が新たに成立する過程でたどる、既存の価値観からの「異化」や「飛躍」の時期を経て、長い「転化」のプロセスにあると改めて感じた。戦後日本のメディアアートは、実験工房などの前衛芸術グループを源流に持ち、かつてはサイバネティックアート、コンピュータアート、エレクトロニックアート、アート&テクノロジー、ハイテクロジーアート、さらに90年代にはインターメディア、マルチメディアとも呼ばれていた。私がこの世界の入り口に立ったのは物心ついて間もなく訪れた大阪万博だったが、1980年代末に、同領域を対象とする日本初の公立館(東京都写真美術館)の学芸員となってからも既に約30年が過ぎた。美術館で手がけ携わった、文化庁メディア芸術祭を含む多数のメディアアートに関する展覧会を通して、カウンターカルチャー扱いだったひとつの文化領域の隆盛と活況、社会への展開・受容の軌跡を間近に見届けることができたのは、非常に幸運だった。前世紀の終わりに、私たちは「近過去としてのメディアアート」★1の行方を議論した。ここ10年は、振興のためにあえて「新しい技術を用いた最新の芸術」とするベクトルから何とか脱し、既存の現代美術的文脈でも評価を得る戦略が展開されてきた。本芸術祭の受賞作品を通じてなされた意義深い問題提起―永遠に完成しない「インタラクティビティ」、エンターテインメントとの曖昧な境界、クラウド的に自動生成される作品の是非、工学的技法や異なる価値観の流入、いわゆる「現代美術」的評価軸からの脱出なども、次第に過去のものになりつつある。次なる10年にも流転は続き、継承と革新を模索する「転化」期が続くのかもしれない。一方で、日本のメディアアートは常に海外と相互に影響を与え合い、創り手の「こころ」が科学者や工学者の「わざ」と結びつき、インスピレーションの源となってきた★2。その背景には、立版古や写し絵にみるような西洋的遠近法に拠らない日本独自の空間把握、生と死を見据えた光と影の捉え方、精密な機構や小さきものに萌え愛でる心など、ガラパゴス的特異性に限らない普遍的な、創造的な営為の流れがある。したがって、メディアアートは単に「電子技術をメディアとしている芸術」ではない。それが忘れられがちな今、敢えて私たちは、精緻なアナログの構造体として成立しているRalf BAECKER『Interface Ⅰ』やバクテリアを表現メディアとするOri ELISAR『The Living Language Project』、画廊の壁面を写真作品としてとらえたNina KURTELA『The Wall』を、『Alter』制作チーム(代表:石黒 浩/池上 高志)による、絶え間なく自律的に動き続ける人工知能作品『Alter』とともに高く評価した。審査を通して受賞作品に選ばれたこれらの作品群が体現するとおり、表現の「乗り物」はデジタルテクノロジーには限らないからである。狭義の「シンギュラリティ」の到来は定かではないが、広義の「特異点」はこれから幾度もメディアアートの上にもたらされるだろう。メディアアートは常に変容するテクノロジーやサイエンスを「乗り物」にして、「芸術」の拡張を志向してきたからである。1990年代半ばから、アート領域とは別のリテラシーと分析をもって工学者らがこの領域に流入し、メディアアートを使ってアイディアを外在化した。次の10年間、アートの外に軸足のある人材とともに、さらに議論や創造は続く。私たちが80年代初頭に大学で学んだ「アイディア外在化の手段」としてのプログラミングを、今を生きる子どもたちは必修で学ぶことになる。美術評論やアート関係者だけでは言説化・到達できなかった次のステージへと、私たちの世界はいよいよ足を踏み入れる。ある領域を超えようとする試みはすべて芸術である。無謀にも新たな価値観を創出しようと試みる作品や才能の登場を、引き続き期待したい。
  • 藤本 由紀夫
    アーティスト
    静かな作品
    昨年度と比較してまず印象に残ったのは、網膜を刺激することを目的にした作品が減少したことである。これはとても良いことである。プリミティブなメディアを使用した作品から、最先端のメディアを使用した作品まで、さまざまな作品を見ながら、私が興味を惹かれた作品に共通するものは、メディアを介在することにより、現在の個人的な、社会的な状況を冷静に見つめ直しているものであった。19世紀末から20世紀初頭におけるアートの表現のひとつの特徴は、平穏な日常を過激に見つめ直すことであったように思う。何でもない日常の見方を変えることにより新鮮な驚きと戸惑いを与えた。それから100年経った現在は、日常そのものが過激すぎる状況になった。そのなかで才能のあるアーティストは日常に流されることなく、目まぐるしく変化する日常に対して、今一度じっくりと対峙しようとしているのではないだろうか。表現として日常を見つめ直すうえでメディアを使うことは、さまざまな感情を一旦客観的状況に変換せざるをえないため、冷静に対処することになる。その結果できあがった作品は、一見するだけではわかりにくい、地味なものとなりがちで、多くの作品の応募がある審査においては埋もれがちになるが、そのなかから真に今日的な問題を真摯に表現している作品を的確に見分ける能力が審査委員に求められていると実感した。それと同時に、作品を体験する環境も、従来の展覧会という空間では対応できなくなっているのだと感じられた。メディアアートの作品が、物理的空間だけでなく、ネットワーク環境も含めて機能する、新しい21世紀の芸術体験空間をつくっていくのだろう。昨今の社会状況がメディア環境の変化の影響なしでは考えられない事実から、芸術表現においてメディアを扱うということは、この社会に生きることに対する現実的な態度にほかならないことを、我々は自覚すべきだろう。
  • 中ザワ ヒデキ
    美術家
    審査を通じたメディア芸術批判と提言・中間報告
    まず落選、もしくは望みどおりの賞に達しなかった作者に対しては、こうした結果を契機に過度に自信をなくしたり、応募作を破棄したりすることのないよう申し上げる。セザンヌは毎回落選しては審査長に抗議していたという。さて重要な変化が今回あった。それは「デジタル技術を用いて作られた」との規定が募集要項から消滅したことである。前回(第19回)の要項では、アート部門は「デジタル技術を用いて作られたアート作品」と太字ではっきり示され、次に角括弧にくくられる形で[インタラクティブアート、メディアインスタレーション、映像作品、映像インスタレーション、グラフィックアート(デジタル写真を含む)、ネットアート、メディアパフォーマンス等]と付記されていた。今回(第20回)の要項ではその太字箇所と括弧記号が削除され、括弧の中身が表に出た。エンターテインメント部門も同様だ。これは、デジタルとの規定が今日、実質的な意味を持たないばかりか、デジタルを使わない美術一般を結果的に排除していると前回私が批判したことの反映かもしれない。一方、メディアアートの原理や理念という内発性を要項に盛るべきとした提案は、見送られた。見送られた提案はしかし、Ralf BAECKERの『Interface I』を大賞とすることによって、審査委員からのメッセージとすることができたと考える。装置それ自体が手段でなく目的に特化されることによって、メディアアートという主題そのものが簡潔直接的に提示されているからだ。その意味では優秀賞の四作は、目的的な表現というある種自明的な価値体系内での質の高さが評価されたものである。ちなみに『The Living Language Project』はいわゆるバイオアートだが、これに対しデジタル云々を問わずに済むことは有難い。次は、メディアアートの上がりである単なるアートがそれ自体、目的化されたものをこそ見たいと思う。
  • 佐藤 守弘
    視覚文化研究者/京都精華大学教授
    不可視のシステム
    文化庁メディア芸術祭の審査委員に就任して3年め。1年めの審査ではメディウム/メディアについて考え(審査講評「メディアを批判的に意識すること」★1参照)、2年めは古い、あるいは絶滅したメディアについて思いを巡らせた(審査講評「オールド・メディアの想像力」★2参照)。それらはそれぞれ、私自身の研究─主に近代の視覚文化研究─からひっぱり出してきたトピックである。私の研究対象と2010年代中盤のメディアアートとは、時代もコンテクストもまったく違うのだが、なぜか不思議に呼応したのだ─。それは、興味深く、スリリングな体験であった。最後となる今年は「システム」について考えてみたい。現代に生きる私たちとは、さまざまなネットワーク・システムの結節点に過ぎないのかもしれない。と書けば、インターネットのことを話しているのだと受け止められるかもしれないが、そのように考えたのは、最近私が19世紀の終わりから20世紀のはじめにかけて都市部を中心に世界を覆いだした電力のネットワーク・システムについて調べているからだ。例えば同じ照明でも蝋燭は、いわばスタンド・アローンで光る。一方で電灯は、懐中電灯などを除き、ネットワーク状に張りめぐらされた電力システムなしには灯らない。電灯に先行するガス灯も同様であった。トーマス・P・ヒューズが『電力の歴史』(原題:Networks of Power、1983)で、電力システムを「文化的制作物」と捉え、それは「それを建設した社会がもつ物質的、知的、象徴的資源を具象化したもの」であると述べているように、不可視のネットワーク・システムは、人間の動きを変化させ、その動きの変化によってのみ、システムは感知されるようになる★3。ということは、近代社会における人間という存在は、システムを可視化するメディアとしても考えうるのかもしれない。今回、優秀賞に選ばれた吉原悠博『培養都市』は、まさにその不可視な電力という不可視のネットワークを可視化する試みである。全国を、字義通り「網羅」する電力のネットワークは、発電所から高圧電線を通じて端末にいる私たちに電力を供給しているが、その「網」そのものは、都市に住む私たちには見えないし、都市そのものが、地方に「培養」されている事実もまた目に入らない。それを鉄塔と高圧電線のある風景の連続によって、浮かび上がらせるのが、この作品である。大賞に輝いたRalf BAECKERによる『Interface I』がシステムそのものを主題とした作品であることは言うまでもないだろう(p.23参照)。また優秀賞のBenjamin MAUSとProkop BARTONÍČEK『Jller』では、川辺で採集された小石が、画像認識によってそれぞれの出自、生成年代別に分類される。これは徹底的な観察によって世界を整然としたグリッドに配置しようと試みた博物学的な知のシステムを自動化したもののようにも思える。またモダニズム的な芸術概念を具現化したシステムである額縁とホワイト・キューブの白い壁を表象することで、芸術システムの均質性と微細な差異を前景化したのが、新人賞のNina KURTELA『The Wall』であるとも考えられよう。システムとは、私たちを縛る七面倒なものだ。アナーコ・パンク・バンドのCRASSが、私たちは死ぬまでシステムに支配されていると歌うように★4。しかし、私たちはシステムなしで生きることはできない。月並みな言い方をすれば、それは空気のような─私たちの周りにあり、私たちの住む場所を限定し、そして目に見えない─ものかもしれない。それを可視化するのは、工学や社会科学やデザインだけではない。アートも─そして人文学も─それを批評的に浮かび上がらせることができるはずだ。
  • 石田 尚志
    画家/映像作家/多摩美術大学准教授
    審査の経験から
    審査をしながら、そもそもアートとは何なのかについて少なからず自問することとなった。それは応募された作品の膨大な量と多岐にわたる形式、あるいはこの芸術祭の部門の区分けや「メディア芸術」という言葉の幅の広さが原因だったと思う。それはけっして否定的なことではなく、幅広いアートの可能性を引き受けるこの芸術祭の魅力なのだ。実際審査会は、さまざまな作品を前に審査委員それぞれのアートに対する考えを深め合う、豊かな時間となった。ひとつ、審査をしながら感じたのは以下のようなことだった。現代の美術は既存の表現を壊し、それまでのものの見方を解放させる欲望として存在してきた。だから、新たな技術を用いて見えざる世界の構造を可視化したり、新たな関係性を提示するような作品は評価されて当然だろう。しかし、その見えざる世界の可視化や、新たな関係性をつくるための道具が、ただ単にひとつの確認の作業となって完結してしまっているような作品が少し多かったように感じたのだ。コンセプトの強度や、表現するために自ら選んだ技術に対する批評性はもちろん大切だが、同時に表現とはコンセプトの説明だけでは終われない何かなはずだ。つくり手本人にもうまく説明できない表現の衝動のようなものが、継続と反復によって作品の精度を増しながら結実していく。それでも残るその発端の衝動の謎が、アートの魅力なのではないか。審査をしながら、そもそもアートとは何なのかについて少なからず自問することとなった。それは応募された作品の膨大な量と多岐にわたる形式、あるいはこの芸術祭の部門の区分けや「メディア芸術」という言葉の幅の広さが原因だったと思う。それはけっして否定的なことではなく、幅広いアートの可能性を引き受けるこの芸術祭の魅力なのだ。実際審査会は、さまざまな作品を前に審査委員それぞれのアートに対する考えを深め合う、豊かな時間となった。ひとつ、審査をしながら感じたのは以下のようなことだった。現代の美術は既存の表現を壊し、それまでのものの見方を解放させる欲望として存在してきた。だから、新たな技術を用いて見えざる世界の構造を可視化したり、新たな関係性を提示するような作品は評価されて当然だろう。しかし、その見えざる世界の可視化や、新たな関係性をつくるための道具が、ただ単にひとつの確認の作業となって完結してしまっているような作品が少し多かったように感じたのだ。コンセプトの強度や、表現するために自ら選んだ技術に対する批評性はもちろん大切だが、同時に表現とはコンセプトの説明だけでは終われない何かなはずだ。つくり手本人にもうまく説明できない表現の衝動のようなものが、継続と反復によって作品の精度を増しながら結実していく。それでも残るその発端の衝動の謎が、アートの魅力なのではないか。受賞作はそれぞれ、世界の新しい見方を探求しようとする強い意志と、その衝動の発端にあった何かとが、豊饒な謎のかたまりとして生々しく結実した作品だった。大賞作品の『Interface Ⅰ』における宙に張られた線の絶え間ない運動や、優秀賞の『Alter』の身体のあの揺れや震えには、生命や時間、あるいはイメージとは何かについていくつもの問いを生む力がある。その揺れや震えは、言ってしまえば我々自身と、我々の周りに溢れかえっているものなのにもかかわらずだ。アートとは何かということの抜本的な謎が、ここに立ち上がってきていた。