22回 受賞作品アート部門Art Division

大賞

優秀賞

新人賞

審査委員会推薦作品

審査講評

  • 秋庭 史典
    美学者/名古屋大学准教授
    「何ものか」との協働がかたちづくる世界
    今回も多数の応募があった。そのうえ、応募作品の形態が多岐にわたり、募集にあたって特定のテーマが設けられているわけでもないため、過去の総評にも述べられているとおり、審査はやはり難しいものとなった。しかしそれでも、いくつかの作品との印象的な出合いはあった。それらは、大量のデータの流れのなかで人と人でないものが協働して新しい視点を創出し、意識や身体や世界のありようをつくりかえている状況(こうした陳腐な物言いしかできない筆者の力不足はお詫びする)のなか、「生命とは何か」「自然とは何か」「宇宙とは何か」といった誰にとっても重要な問いについての自身の考えを、自身ではない「何ものか」との協働のなかでかたちにしてみせていたのだ。それらは、状況についての単なる問いかけ、揶揄、冷笑などではない。またその状況の深層を露わにすると称する現代思想の図解などではもちろんない。芸術史に閉じてもいない。なにより、科学や科学技術について批評的立場を採ることのできる特権的領域がアートであるという、アートの自己規定に囚われていない。それらの作品には、まだ知られていない生命の姿(その先取には科学との協働がどうしても必要)を、想像もつかないようなかたちで半ば暴力的に示すこと(その実現にはテクノロジーを含めた各種生態系への洞察が不可欠)、そうした開示の可能性が示唆されていた。そのとき作品は、はじめ自分が何を見聞き触れているのかさえわからない、にもかかわらず作品と鑑賞者を包む場の全体が自身の身体に刻み込まれ二度と忘れることができない、そんなものごととなっているだろう。そうした可能性を示唆していただいたことに、この場をお借りして深く感謝申し上げたい。
  • 池上 高志
    複雑系科学研究者/東京大学大学院総合文化研究科教授
    狂気性を孕んだアートはどこへ?
    今年初めて文化庁メディア芸術祭の審査に関わらせていただいた。アートの審査は科学研究の審査とは異なり、明白な基準を持つわけではない。かつ映像やインスタレーションから、モノや写真まで応募作品は多義に渡る。膨大な応募のなかから優秀作品が選べるものかと危惧したが、呆然として作品を見ていくと、だんだんとその違いが見えてくることに気が付かされる。やむにやまれずつくってしまったもの、賞を取ることを狙ったもの、手法が先行するもの、偶然性から生まれたもの、批評性のあるもの、強度のあるもの・ないもの......その違いは映像かサウンドの作品かインスタレーションかといった作品の種類にはよらない普遍的な要素である。そうした点がわかったとたん作業が進みはじめる。現代は強く新しい技術が台頭した時代である。インターネットに始まったその流れはブロックチェーン、ビッグデータ、深層学習、AIと次々に人の理解を超えて作動するシステムが生まれてきた。そうした先端技術は当然のごとく多くの作品に影響を与えている一方で、作品には技術とは関係のないところで蠢く恐さが必要なのは言うまでもない。先日Twitterで東京大学教授の稲見昌彦さんがつぶやいていた。最近は恐ろしい作品には出合わなくなった。むしろ応援したい作品が多いと。そのとおりである。アートは応援されるようでは駄目なのではないか。今回の審査でも多くの「応援したくなる」作品群に出合った。そこには既存のアート作品を叩き潰すような暴力性は存在しない。むしろ技術にひれ伏すか、きれいにまとまった作品が多かった気がする。2000年くらいのメディアアート、特にサウンドアートのシーンには怖いものがあった。国内外ともに、狂気の息吹が確かにそこには感じることができた。最先端の技術はつねに狂気性を孕んでいる。手懐けるのは容易ではない。しかし仮に狂気の目が再びメディアアートに出現するとしたら、それは新たな技術との戦いにしかないと思う。それを来年以降に期待したい。
  • Georg TREMMEL
    Georg TREMMEL
    バイオロジーがメディアアートの次なる課題となる理由
    審査委員への打診は、うれしい驚きでした。なぜなら、私は主にアートとバイオロジーに取り組むアーティストであり、日本人ではない初の審査委員だと思ったからです。そして、文化庁メディア芸術祭の選考・審査の過程に関わり、賞が授与される経緯とその理由を知ることは楽しみでしたし、大変興味がありました。
文化庁メディア芸術祭のアート部門は、非常に特殊です。なぜなら、ほか多くの芸術祭では主催者によってトピックやテーマが設定されますが、同芸術祭ではそうではないからです。中立的な立場で作品募集を行い、アート部門だけで2,500を超える大量の作品が審査委員のもとに押し寄せてきますが、それは当然の結果といえるでしょう。絵画、映画、写真、サウンド、ビデオなどの古典的なメディア作品から、インタラクティブインスタレーションやネットアートといった「新古典的」なもの、さらにバーチャルリアリティや人工知能などにフォーカスした最先端でテクノロジーベースのものまで、作品は多岐にわたります。なかでも、VRや(それほどのレベルではないにせよ)AIを扱った作品は強い「文化的記憶喪失」を感じました。文化庁メディア芸術祭がスタートした20年以上前に、アーティストたちがこのようなトピックやテクノロジー、そしてさまざまな問題を扱っていたことは意外なことではありません。しかし、テクノロジーがより利用しやすくなっても、アーティストの取り組みや批判的な視点はそれほど進化していないばかりか、総じて後退しているとさえ思えるのは驚きです。メディアアートには、形式化し反復されるという、ある種の傾向もあるようです。私たちは、メディアアートが保守的なものになったり、オーソドックスに陥ったりしないように、注意を払う必要があります。私たちは刺激的な時代を生きています。コンピュータと情報技術が20世紀をかたちづくったように、21世紀はバイオロジーとその応用の世紀になる、または、すでになっているといわれています。しかしこれは、メディアアートとどのような関係があるのでしょうか。身体とメディア、感覚と装置の距離は着実に縮まっています。映像を例に挙げると、映画に始まり、テレビを経て、コンピュータやスマートフォンの画面へと、どんどん体に近くなってきています。しかしこういった「人間の拡張」は、サイボーグやオーグメンテッド・ヒューマン、VRといったテクノファンタジーにおいて、自然の限界を超えていくでしょう。同時に、生物科学は急進的な変貌を遂げています。つい最近まで、生物科学は厳密には分析科学であり、解読し、観察し、分類することしかできませんでした。つまり、読むことしかきないメディアだったのです。しかし、CRISPR/Cas9といったゲノム編集ツールの登場により、現在では、根本的なレベルにおいて生命を「書く」ことが可能になり、生物の「読み書き」ができるようになりました。読み書き操作が可能になったことで、生物学そのものが、最新であり最古でもあるメディアになりました。こういった新たなテクノロジーが引き起こしている、社会やモラル、倫理の問題に批判的に取り組むことがアーティストの役割であると、私は強く信じています。私は次回の文化庁メディア芸術祭の応募作品を楽しみにしています。また、海外からの応募が増えることを願っています。そして、応募作品のクオリティと深さに、いい意味で驚きたいと思っています。
  • 森山 朋絵
    メディアアートキュレーター/東京都現代美術館学芸員
    特異点を超えて、 ふたたび
    本芸術祭が第20回を迎えるタイミングでアート部門審査に参加し、創設から間近に見てきたその動向を、なかからも注視する機会を得た。今回はメディアアート、情報美学、人工生命、イオテクノロジーの専門家たちと議論しながら作品を選ぶという興味深いシチュエーションであった。選考委員の尽力を得ても、2,500点を超えるアート部門応募作から賞を選ぶ作業は厳しい。しかし例えば建築家、コレオグラファー、工学系研究者、ジェンダー系作家らとつねに思考を言語化して議論し決戦投票する海外の「どアウェイ」な審査や国際会議に比べれば、軸足の置き場が違うメンバーがわずかでもシンパシーを感じ作品の本質を論じ合えたのは幸いだった。その証左か、「記述(ディスクリプション)」についてメタ認知的に問う試みや、極めてサイトスペシフィックかつゼネラルな音と光に圧倒される空間作品、集合知を想起させるインスタレーションやパフォーマンスが高く評価された。過去の受賞作を俯瞰すれば、インタラクション系も高精細動画もVR工学系もコンセプチュアル系やバイオアートも台頭しては見慣れた分野となり、アルケオロジーを形成している。一方で私たちは、困難と知りつつ、誰にも似ていない作家や表現との出会いを夢想する―つくり手への絶対評価と相対評価に逡巡し、優れた才能ほど期待と厳しい目で見てしまう。今回は、国際的な協働を含みながら、ある意味ドメスティックなつくり手らが上位を占めた。「いかにもメディア芸術祭的」などという見方もありそうだが、同時に「メディア芸術祭育ち」の才能を真摯に育んできた成果を前向きに評価できないだろうか。また、歴代の受賞展風景を見れば(国際コンペティションの作品選定は、受賞作展示とは無関係に決定されるべきだが)、あくまでニュートラルに各作品を扱うという条件下で、高度なノウハウの必要なこの領域の展示が、エレベーションや特徴のある会場を変遷するうちにグルーヴ感を増したのがわかる。文脈にそって受賞作をフローリッシュに見せる受賞作品展が、次に目指すもののひとつなのかもしれない。前回までに述べてきた通り★1、「メディアアート/メディア芸術」は既存の価値観からの異化と飛躍を経た長い「転化」のプロセスにある。変容するテクノロジーやサイエンスを乗り物に「芸術の拡張」を志向するゆえに、それは単に「電子技術を表現媒体としている芸術」ではない。前主査・中ザワ委員が指摘したように★2、第20回では「デジタル技術を用いてつくられた」という規定が募集要項から外れ、精緻なアナログの構造体やバクテリアで描画する作品が賞を得た。第21回では、あえて振興のため「新しい技術を用いた最新の芸術」と主張する「近過去としてのメディアアート」から脱し、工学的技法や価値観の流入、現代美術的な評価軸という戦略からも開放され、「そもそもこれは何なのか?」と皆が分析に困る、謎めいた作品が現れ大賞となった。そして今回は「綿毛」が風に揺らめく造形までもが登場した。プログラミング教育必修化や8Kの創作機会が増える一方、過去の東京オリンピック・大阪万博・アポロ計画をなぞるような社会の動きのなかで、「高速伝記」的なレボリューションの縮図が生まれたのかもしれない。メディアアートが「現代美術の一分野か/むしろ従来の現代美術と遮断されているか」、「独立すべきか/包含されるべきか」という議論はアンビバレンツである。「メディアアートの民主化」の一方で、過去の作品は時に聖遺物としての運命を辿る。アートミュージアムを離れ乗り物を変え、エフェメラルな魂はどこへ向かうのだろうか。もはや「現在の美術」ではない戦後美術としての現代美術に対して、それはダークマターのように厳然とそこに在る。メディアアート/メディア芸術は大きな流転のなかにある―では「わたしの戦いはいつ終わるのだ......?」★3流転のただなかにあって、一体どこが特異点だったのか―今は誰にもわからないそれを、やがて視る日を楽しみにしている。註

  • 阿部 一直
    キュレーター/アートプロデューサー/東京工芸大学教授
    多様な表現分野からメディアアートへの転換
    アート部門の審査は、昨年から審査委員が3名変わったこともあり、「メディア芸術」のなかのアート部門の方向性にも変化が出たように思われた。従来は、キネテックアート、映像作品、アニメーション、現代美術による表現などの多様な表現分野の、言い換えれば、やや雑多な領域の受け皿的なかたちで、各特徴的表現を振り分けて評価してきたやり方であったが、今年はそれから大きく舵を切り、情報デザイン、メディアアートをアート部門の中核として評価していく方針が結果的に明確に表れた審査になった。雑多な領域に対する多様性から、メディアアートにフォーカスが絞られたなかでの多様性を見出すことへのシフトとしても捉えられる。結果的に、大賞、優秀賞が日本のアーティストに占められたが、それらの提案するテーマ性は、AI、A-LIFE、バイオアート、ロボティクス、多次元表象といった非常に今日的な科学的なモチーフを内含し、緻密なシステム構築と独自のプロセスや思考によって作品として仕上げられたもので、ある意味すでに認知された作家名が並んではいるが、ほかの候補作を圧倒した出来上がりであったことは確かである。こうした緻密な手つきは、日本の特徴と言ってもよいものになりつつある。サブカルチャーの意匠に塗れたものだけが、日本の輸出品でないこともこれらは証明しているだろう。これらの作家は、ほかのプロダクションや企業プロジェクトでのグループワークでも、重要な役割を担っている多彩なタレントであり、個人名だけが屹立しているわけではない。中堅世代の多元的なプロフェッショナリズムの両立が、内容の充実度を生んでいるとも考えられる。反面、新人賞を獲得したロシアのアーティストAndreyCHUGUNOVの『TotalTolstoy』は、今日的なスマホカルチャーのトピックにおいては、もはや廃れてしまった人文主義的な主題や、それらが包括する長大な時間持続性の最もふさわしいサンプルとして、トルストイのテキストを解析対象にし、情報学的アプローチによってオーディオビジュアル化したものであるあ、メディアアートの主題戦略として、このような社会批評的なアプローチも有効であることを、作品化によって喚起した興味深い事例となっていた。