15回 受賞作品アート部門Art Division

大賞

優秀賞

新人賞

審査委員会推薦作品

審査講評

  • 原 研哉
    グラフィックデザイナー
    テクノロジーの進歩によって新たな世界がひらかれる
    芸術の歴史をたどると、美や創造性といった定義しがたい情緒的な価値のダイナミズムによって編まれてきた系譜と、科学やテクノロジーによってひらかれた世界観で編まれてきた系譜の2つがあることに気付く。メディアアートは後者の系譜に連なるものだろう。解剖学や遠近法の発見は、ルネサンスという芸術の冒険を加速させたが、カメラの登場、飛行船の登場、人工衛星の登場、電子顕微鏡やコンピュータグラフィックスの登場などによっても人間の視覚は拡張され、世界の描かれ方はその都度劇的に変化してきた。メディアアートを審査し、その優れた功績を顕彰するなら、テクノロジーの進歩によって僕らがどのような世界を見ることができるようになったかを、いかに気付かせてくれるかという点から評されるべきだと思う。個人的に心に残っているのは、スペースシャトル「チャレンジャー」の打ち上げ失敗を見た記憶を、色面構成のアニメーションとして展開した『The Saddest Day of My Youth』である。これはスペースシャトルというテクノロジーを「メディア」として感じた際の世界のリアリティとして気付かされるものがあった。大賞の『Que voz feio(醜い声)』は哲学性・文学性の高い表現で好感をもったが、テクノロジーの咀嚼という意味においては、従来の映像芸術の領域に属するのではないかと思われた。
  • 関口 敦仁
    情報科学芸術大学院大学(IAMAS)学長
    技術に頼らず、表現の意味を問う深みを
    率直に申し上げて、今回の応募作品は総じて質が高かった。
    メディアアート全般が抱える問題として、単純なインタラクティブ性とそれを支える技術やツールの一般化による、表現のパターン化が挙げられる。このような背景を超えてある質を獲得するためには、作品自体に表現の意味を問うような深みがなければ、デジャビューのような作品ばかりになってしまう。そのような意味では、むやみに薄っぺらなコミュニケーションとか、相互性を主張する作品は減る傾向にはある。他方、その深みをコンテンツの一部として映像に凝縮させ、部品として使用する作品が増えてきている。メディアアートの技術的特徴は、本来ランダムアクセスによる、自由度の高い表現性である。しかしながら、それはすべての選択肢に深みを与えることへの難しさともなっている。アーティストたちも、そのことに我慢ができなくなってきているであろうか? 映像を中心とするシーケンシャルコンテンツは、その堅牢な性質から表現の意図を抱え込みやすいのかもしれない。かといって、映像作品がイコールでメディアアートではないことは明白ではあるが、その一線は曖昧でもある。
    今回、大賞を獲得した『Que voz feio(醜い声)』はシナリオを示す構造としてデュアル映像を使い、新しい表現メディアの一手法とした点でメディアアートであった。そして、そのシナリオ性には幾重にも重なる二重性が表現されていた。『particles』は、さりげない普通の現象のように球が発光し循環しているが、冷静に見れば非常に計算された動きや連動性が丁寧に作り上げられている。その計算された部分に更なる迫力が加わっていれば、大賞となったであろう。『HIMATSUBUSHI』は、今回の審査委員にとってマスコットシンボルのような作品であった。日本人にとってつくづく日常というやつは、愛らしい、と感傷的に捉えてしまう何かがこの作品にはある。アートの重さは感じないが、何か演芸的映像表現とでも呼べるのかもしれない。こんな呼び方したら、本人は怒るだろうな。
  • 後藤 繁雄
    京都造形芸術大学教授
    あらゆる事象の本質を問う3.11以降のアート
    メディア芸術の定義は簡単ではない。絵画であれ彫刻であれ、伝統的な芸術様式も表現を伝えるメディアであるからだ。かといって、テクノロジーとして新しければよいというわけでもない。従って、広義にメディアの特性を意識しつつ、従来の芸術概念を破る、拡張する作品を選ぶことを審査基準として選考に臨んだ。内的な葛藤以上に、外的なストラグル、他者との関わりから個や私を超え、時代や社会の不定型な情動が浮かび上がることを期待しているのだ。ポスト・ポストモダン社会では、テクノロジー、サイエンスを取り込んだインスタレーションモデルがますます重要になると思われる。それは必ずしも美術館という制度化された時空ではなく、街、社会、地球レベルで行われるだろうし、古い作品というボーダーも超えるインスタレーションになっていくだろう。
    本年の審査は、3.11以降のアートという視点なしにはありえない。3.11はアーティストの間でも様々な問いのエコーを引き起こしている。ポリティカルなアプローチをする者もいれば、表面的にはまるで無関係に見える作品もつくられるだろう。3.11は何らかの形で我々に再定義化を迫る。モラルや世界観、いや我々の存在そのものを問うのだ。
    今回、映像というメディアとしては古い分野に見るべきものが多く、大賞受賞作品は記憶や存在を問うもので非常に良かった。デジタルフォトは写真自体がアナログからデジタルへの変化のさなかにあることのストラグルから、見応えのある作品、作家が出てきた。おとなしく見えるが、写真がコンテンポラリーアートのフロントラインに踊り出ていることを再確認させられた。
  • 神谷 幸江
    喪失から生まれた社会へのテーゼ
    日常に遍在する、誰にでも使える手軽なものへと技術はどんどんと転化している。アーティストたちは、こんなことができるぞ、という技術的な先進性にだけ優先順位を置くのではなく、何を伝え、表現するのか、内容という作品の強度をより高めることにどんどんと向かっている。技術は思考と表現を支える手段の1つ、そんな次なるステージを迎えたメディア芸術の現状が確かに伝わってきた。
    特に映像作品においては、テクニカルな部分の主張よりも充実したコンテンツの多様さが際立っていた。映画的、演劇的な作りなど、自ずと複数の表現領域を横断する総合的な表現は、様々に展開していく可能性を帯びる。それはメディア芸術が、新旧あらゆる手法をのみ込む広がりを孕んできたことの現れに他ならない。そして今回、東日本大震災を経たことは、表現が社会的な関係性の中で持つ意味を考えようとする作品に繋がっていたように思う。
    3.11の未曾有の震災は、映像やデータ解析という技術の目によってくまなくその様相が明らかにされた、かつてない災害であったといえる。日々の営みを断絶する自然の力を目の当たりにし、表現者たちは、人々と繋がることのできるメディアの開かれた特性を生かして、これを創造的に用いる実践を試みていた。膨大な数の応募作品が押し寄せ、漂った熱気。それは喪失を目の当たりにしたこの時にこそ、身の回りに目を向け、創造すること、生み出すことに向かう実践が集ったからではないだろうか。
  • 岡﨑 乾二郎
    近畿大学国際人文科学研究所教授
    すべてがメディアアートになる現代と2011 年という節目
    岡﨑先生はメディアアートをどのようなものだと考えていますか?
    近年メディア芸術の定義は、より不明瞭になってきています。メディア芸術祭が始まった15年前は、デジタル技術を用いた作品はまだ数が少なかったため、おそらく暗黙の前提としてデジタル技術を使った作品=メディア芸術という定義があった。けれど今ではデジタル技術に関わることなく制作される作品はない。当初の設定で言えば、どんな芸術作品でもメディアアートです。他方、例えば現在、Webを用いた作品はすべてインタラクティブであり、同様に展示されれば写真でも映像でもインスタレーションとなるため、これらの概念もまた、ジャンルの定義にはなりません。ゆえにジャンルの区分を無効にするのが現在のメディアアートという呼称とさえいえます。けれど、そもそもメディアとは作品の伝達、記録の形式であって、作品の形式ではありませんでした。いわばメディアアートとして作品を捉える時は、作品そのものの形式だけではなく、作品を取り巻く社会文化関係を必ず含んで見なければなりません。

    今年のアート部門の応募作品の傾向はいかがでしたか?
    メディアは技術として入力情報=インプットを別の情報に変換しアウトプットする、この変換技術を要点とします。これまでのいわゆるメディアアートは、このインプットとアウトプットの意外な結びつけ方に関心が偏っていました。例えば素材の質感、あるいは映像を音に変換する。けれど変換するだけではもはや新鮮とも感じられず、この変換にいかなる意義があるのかが問われます。また奇抜な変換を行っても結局のところ、作品のアウトプットは映像、音楽、絵画、ドローイングなどの従来のジャンルと当然重なります。今年の審査では、出力情報としてのコンテンツの質が競われるまでの成熟が感じられたと同時に、単なる技術ではなく従来のジャンルとも拮抗しうるクオリティが問われました。テクノロジーの使用はその過程であり、逆にこの過程の特異さを従来の文化への批評として意識化できていなければ、魅力を感じることができません。大賞の『Que voz feio(醜い声)』は2面の映像、音声を併映するだけの手法で様々な差異やズレが生み出す歴史的かつ空間的な奥行きのあるストーリーを浮上させることに成功しています。テクノロジーが実現するような情報の差異の焦点として生み出されるものは想像的な像=思い込みにすぎず、「醜い」という語はこのズレが生み出す想像的な像を適確に示しています。こうした想像的な像をこの作品は相対化し、別の像を詩的な洞察力をもって出現させます。この作品の核となる「ブローチ」こそ、メディアであり詩的言語です。この見えない対象はゆえに複製され得ない固有な経験を私たちに与えてもくれます。

    東日本大震災をテーマにした作品もアート部門では多かったように思います。
    震災以降、確かに芸術的な感受性が変化したように感じられました。従来のテクノロジーを使う作品には技術の精度、スケールによって人の感覚を圧倒し、脅かし、拡張する崇高な表現も多かったのですが、こういう表現にもはやインパクトを感じられなくなった。例えば津波の映像を見た時に受けた衝撃は、映像としてはパニック映画で今まで私たちが見てきたものと変わらないはずなのに大きく違う。しかし、この違いが表現できない。映画ではどんな恐怖でも終わりがあり最後には観客がそれを快楽に変換できますが、現実は終わらない映画を見続けているようにこの像はいつまでも安定しない。思考、感情の不安定な状況が続くわけです。この揺らぎこそ、それを結びつける別のメディアを要請するものともいえるはずですが。今年選ばれた作品は、インパクト重視ではない分、地味に見えても作品の深さ、批評性そしてコンテンツの精度のレベルも上がっています。複層化した情報環境の揺らぎを捉える編集術の力の差が現れたのが今年の作品群の特徴だと私は思います。もちろん審査は合議制ですから、アート部門の受賞作品すべてを私の視座だけで語れるわけではありませんが(笑)。

    メディア芸術祭とアートそのものは今後どのように発展していくでしょうか。
    将来、ここに登場した作品群を見るだけでその時代の文化及び歴史的展開が読み取れるアーカイブとして信頼される芸術祭になればよいと願っています。その年の流行ではなく、何がどう未来へと繋がっていったのかを記録していく。例えば震災が起きたことによって、今年の表現は未来の歴史家が必ず調べるものになるでしょう。震災は文化にどう影響を与え、また文化はそれにどう応えたのか、これは現在を生きる私たちにも関心のある事柄です。メディアアートはメディアである以上、その表現には、それを観る人とその反応が必ず含まれます。その意味でメディアアートは歴史の成立そのものを示す力がある。「自立したアート」としてのメディアアートはあり得ない。これが「ジャンルの越境」を意味するのだとすれば、ようやくメディアアートの状況は整ったともいえるのではないでしょうか。