17回 受賞作品アート部門Art Division

大賞

優秀賞

新人賞

審査委員会推薦作品

審査講評

  • 高谷 史郎
    アーティスト
    意識の最深部に突き刺さる芸術への探求
    今年も応募作品の中にはさまざまな素材や技術を用いたものがあった。素材や技術はアーティストを刺激し、作品を構成する重要な部分になる可能性を持つ。ただ、単に新しい素材や技術を取り入れるだけでなく、どのようにその素材や技術と向き合い、どのように構想するイメージに組み込むのか、あらゆる可能性の中から一つの方法を見つけ出し独自の作品としてまとめ上げなければ、作品として成り立たない。メディア芸術とは、「テクノロジーによって、今まで見たこともないような、世界の新しい切断面を見せる〈何か〉」ではないだろうか。特に今年の受賞作品はテクノロジーとその使い方という点において洗練されており、独自の作品としてまとめられていた。例えば、目に見えない磁力を視覚と聴覚で捉えられるように変換したカールステン・ニコライの『crt mgn』や、「泡」を社会の言葉にできない「空白」に形を与える物と捉えた三原聡一郎の『 を超える為の余白』、ソーシャルメディアを利用して、監視、暴力、戦争とネットワーク技術との関係と不調和を見せる『Dronestagram』など。また、コンピュータが処理や記憶をするためのデータ、いわゆるバイナリに置き換えられた現代の文化を本という古いメディアに乗せることで、未来との対話を試みる『The SKOR Codex』は、時間について新たな視点を投げかけている。このように、今まで見えなかった「物」を見えるようにし、鑑賞者の感覚の解像度を拡張し、今まで見えなかったもの、見ることのできなかったものが見えてくることによって、今までの世界との微妙なズレを感じられるのではないか、そしてその微妙に思えるズレが、実は大きな意識の転換につながっていくのではないかと多くの応募作品を通じて感じている。
  • 三輪 眞弘
    作曲家/情報科学芸術大学院大学(IAMAS)教授
    テクノロジーから視た人間世界
    古今東西の音楽でも美術でも、そしてメディアアートと呼ばれるものでも、芸術の体験とは「鑑賞」などではなく、作品に「立ち会う」ことであるに違いない。立ち会うとは、観るものが遠くから眺めたり値踏みしたりするのではなく、逆に作品の世界に没入するのでもなく、ある見知らぬ出来事に出くわし、目撃し、その証人になることを引き受けるという意味だ。しかし、それは何の証人なのだろう。いや、一体誰が誰に対して何を証すのか。うまくは言えないが、今回選ばれた作品はどれも、僕らにそこに立ち会うよう強く求めていた。例えば、もはや歴史となりつつある黎明期の「装置による表現」。すなわちメディアアートに対する内省的なオマージュや自己言及であったり、あるいは、不定形な空虚の象徴である気泡を電気仕掛けで生成し続ける「装置それ自体」などである。
    更に、この地球で起きているさまざまな現実に向き合うことを余儀なくされる作品にも注目が集まった。武器売買を巡る証言の中に投げ込まれる拡張現実空間内の演劇であり、無人爆撃機に関する情報と衛星写真を刻々とアップロードしていくウェブサイトであり、また、ネット上の情報をクラウドソーシングを利用して編纂した「地図帳」などである。
    大衆化した最新テクノロジーや機械的なシステムが、このような作品が生まれる土壌を整えたわけだが、そこで使われているテクノロジーの起源をたどるとき、僕らはまさに、作品で扱われている現実─兵器開発─に行き着いてしまう。少なくともそれらの作品は、特定の国家の不正を暴露しようなどというちっぽけなことを目指してはいない。そうではなく、作家たちは「途方もないテクノロジーを手にした僕たちは今、この地球上で何をしようとしているのか?」と何者かに向かって問いただしているように見えるのだ。世界経済とテクノロジーが国家や文化の固有性を超えてしまった現在、世界中の人々が「テクノロジーから視た人間世界」による「芸術」に一縷の望みをかけているのかもしれない。作家の正義感や政治的信条などを超え、僕らは見知らぬ作家の冷静な問いかけに言葉もなく、ただ「立ち会う」ことになる。今、この瞬間にも無人爆撃機が作戦を粛々と遂行しているかもしれないという可能性の下で。
  • 後々田 寿徳
    キュレーター/梅香堂オーナー
    「現在」芸術としてのメディア芸術
    今回、多くの作品を審査していくプロセスは、望外の喜びを与えてくれた。個々の作品の素晴らしさはもちろんのこと、さまざまな地域や表現メディアを超え共通する、同時代の精神のようなものに触れることができたからである。「メディア芸術」といういまだ聞き慣れないカテゴリーの印象に相反して、応募された作品たちは、現代アートのほとんどの領域をカバーしていると言っても過言ではない。むしろ、世界各地で開催されている著名なアートイベントなどより、その門戸は広いのではなかろうか。だからこそ、作品に共通する何かを見出していくことは、メジャーなアートシーンとはまた異なった、アートの現在形を発見する刺激的な経験であった。特に印象深かったのは、現代のグローバルな社会的、政治的現実に直結する作品が多かったことである。優秀賞を受賞した『Dronestagram』や『The Big Atlas of LA Pools』、さらには推薦作品『outsourced views / visual economies』など、ビッグデータやクラウドソーシングをそのテーマや手法として取り上げた作品に、強い共感を覚えた。もちろんアーティストたちはそれらを「新しい公共財」として、素朴に扱っているのではない。むしろそれらが国家権力やグローバル企業などの新たなスピンオフに過ぎない現実を、冷徹に指摘しているのだ。新人賞の『Learn to be a Machine | DistantObject #1』は、観客を含めたユーモラスな手法によって、いわばメディアアート批判を行うものであるが、それが現代のメディア・テクノロジーと相互監視社会のシニカルなシミュレーションにまで昇華されている。また、グラフィックアート(デジタル写真を含む)に優れた作品が多かったことも印象的であった。通常の写真展などではまず見ることのできない実験的な表現や、ペーパー・メディアならではの作品が多々あり、新鮮であった。一方、残念だったのは、日本人アーティストの作品がやや生彩を欠いていたことである。アイデアは奇抜で斬新なものもあるが、総じて「メディア芸術」というカテゴリー内にこぢんまりと収まっており、他国の作品と比較すると脆弱に感じた。月並みな表現ではあるが、作品があまりにも抒情的であり、たとえば『Situation Rooms』などの叙事的な作品に対して見劣りする。これは再三指摘されてきた、われわれの文化的風土の問題でもあるのだろうが、それが現在のメディアアートにも顕著に表れていることは興味深かった。審査中、いくつかの問題点も浮上した。たとえば山口情報芸術センター[YCAM]が応募した制作支援のためのアプリケーション『Reactor for Awareness in Motion( RAM)』。それが新たなアート作品の制作に資するものである以上、自律した作品ではないと単純に排除してよいものかどうかが問われた。今後の検討が必要であろう。更に、映像作品に、ナラティヴで、また一時間を優に超える上映時間のものが多かった点。いわゆる純然たる映画と、あるいはドキュメンタリー作品との境界をどう考えるのか、意見が分かれるところがあった。近年、内外の美術館などで、展示作品、いわゆるインスタレーションとしてこうした映像作品が積極的に取り上げられている動向を鑑みながら、柔軟に対応していく姿勢が求められよう。最後になったが、応募いただいた多くのアーティストはもとより、今回より作品選考に携わっていただいた選考委員の方々に感謝申し上げたい。
  • 岡部 あおみ
    美術評論家
    愛の記憶をつなぎ、抵抗の歌をともに
    豊かなメディアによる創造性と社会への真摯な問い掛けの可能性を実感した審査であった。大賞を受賞したカールステン・ニコライの作品に関する贈賞理由(p.22)にも記したが、メディアの過去と現在を結ぶ芸術への愛が感じられ、また表現者たち個別の成熟したまなざしを通して過去の複製芸術の媒体、例えば「書物」などが再認識され、人類の汲みつくせぬ文化資源や歴史に最先端の実験がクロスオーバーし、未知の世界を切り開く心躍る瞬間に立ち会える喜びがあった。グラフィックアート分野で優秀賞に輝いたベネディクト・グロスの『The Big Atlas of LA Pools』は、オープンソースを利用してロサンゼルスにある約43,000個のプールや性犯罪者などをマッピングし、約6,000ページ74冊の本にまとめあげた作品で、一見乖離しているように見えるデータの関係性を示唆する社会学的探求ともいえる。膨大なグラフィックイメージとして本に落とし込まれたのは、貴重な元データやソフトが、ある日突然ネット上から消えたり使用不可能になるネット社会特有の不安定性への抵抗であろう。一方、やはり最終形を本にした新人賞の『The SKOR Codex』のアイメリック・マンスーによれば、書物は後に解読されるべき「普遍的な未来のタイムカプセル」として選択され、数千年続く文化的保管装置にゆるぎのない信頼が置かれている。さてGPSなどの高度な科学技術が戦争のテクノロジーと関連しつつ開発されてきたことは周知の事実だが、出現したシステムは世界中でソーシャル・ネットワークや文化的表現にも活用されている。そうしたエンターテインメント的なツールの陰に元来の目的は隠ぺいされることも多い。戦場とはほど遠いリラックスした日常環境の中でコンピュータ画面だけを見ながら、まるでゲームのように無人飛行機を操作し爆弾を投下する若い兵士の映像を山形国際ドキュメンタリー映画祭で見てぞっとした経験がある。優秀賞のジェームズ・ブライドルのプロジェクト『Dronestagram』は、非戦地帯における無人飛行機攻撃地点を確定し、地名を探索してその土地の鳥瞰画像とともにオンラインの配信機能を用いて人々に伝える作品である。メディアを逆利用しつつ殺りく兵器に抗議し、更に誰でもが使用できるプログラム自体への問題提起でもある。なぜならその内容は主に、空中から地上を見落ろす視覚的醍醐味とその快楽を誘発する装置として一般に通用しているからだ。『Situation Rooms』で優秀賞を受賞したリミニ・プロトコルは、東京の人口統計から住民の素顔を再構成した『100%トーキョー』という作品で、2013年に開催された演劇祭「フェスティバル/トーキョー」に招待されたユニットである。タイトルはケネディ大統領時代にホワイトハウスの地下に緊急事態対処用に作られた24時間体制の状況分析室の呼称であり、ウサマ・ビンラディン殺害の映像を見るオバマ大統領ら13名がいた場所として有名になった。戦争やホビーの射撃などで銃器と関わった体験を持つ出自の異なる20人の物語を20室の空間として設置し、観客はナレーションや映像をたどりつつ、武器や凶器と関係した人々とバーチャルに交わり、自らの立ち位置を探る。映像を通じて観客同士も絡み合う要素もあり、殺人につながる銃器への批評をこめた再認識を促す作品といえる。新人賞のホーチ・ローの『Learn to be a Machine │DistantObject #1』はインタラクティブアートへのユーモアたっぷりで風刺的なパフォーマンスである。アモール・ムニョスの『Maquila Region 4』は、メキシコでの低賃金労働者を励まし、刺繡された一種のバーコードがその人柄を伝える信号となる仕組みで、両新人賞作品はともにヒューマンな余韻に満ちている。消滅と生成を繰り返すシャボン玉が主役の三原聡一郎の優秀賞『   を超える為の余白』は、3.11以後の虚無が去来する現実に対する芸術のはかなさと、だがそれでも問いかけ続けねばいられない創造者の意志が繊細に表現されている。
  • 植松 由佳
    国立国際美術館主任研究員
    よりアクチュアルに展開するメディアアート
    私たちを取り巻くテクノロジーの発達とともに生み出されたともいえるメディアアート。今年度の芸術祭に寄せられた2,500点近くにも達しようというアート部門への応募作品からは、時が進み、この技術の先進性を獲得すべく制作された作品と、その一方でメディアアートという言葉の持つ寛容さを現す作品が見受けられた。つまりテクノロジーの高みを目指すアーティストがいる一方で、日常化した技術を軽やかに用い、自らの思考や表現を表出化する術として、多岐にわたるメディアを選ぶアーティストもいる。非限定的なメディアの使用やジャンルを越境する試みは、柔軟性を保ち多様性を示しているが、このことこそがメディアアートたらしめるゆえんであり、時代の変遷による作品の差異は、この「メディア芸術祭」にも少なからず変化をもたらしているだろう。応募点数が最も多かった映像作品では特にこれらの点が顕著であり、海外からの作品を主にテクニカルな面の強調よりも、現代のアクチュアリティに基づいたドキュメンタリー性や物語性の強い内容の充実したものが多数見られた。いわゆるビデオアートとしての表現様式を備えながらも、ここでもジャンルの境界が融解することでメディアアートの広がりを現している。応募点数が多いのも、こうした理由が挙げられるのではないだろうか。大賞を受賞した『crt mgn』は、メディアアートとしてのある成熟した姿を示しているように思った。また同時に優秀賞の中でも『Dronestagram』や『The Big Atlas of LA Pools』といった作品では、昨今のインターネット環境が醸成した社会の反映を受け、そのネットからのデータをメディアアートとして成立させる手法が試みられている。コンピュータテクノロジーが進化する上で、SNS(ソーシャル・ネット・ワーキングシステム)の普及に見られるビッグデータ時代の到来は、これまで現代美術のあり方として重要なテーマであった「引用と複製」について、時代に寄り添うメディアアートの新たな展開を示すものとして注目した。