第16回 受賞作品アート部門Art Division
大賞
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Pendulum Choir
ミュージックパフォーマンス
Cod.Act (Michel DÉCOSTERD / André DÉCOSTERD) [スイス]
9人のアカペラと18の油圧ジャッキからなるオリジナル合唱作品。歌い手たちは角度可変の台座の上に立ち、生きた音響要素となる。9人はさまざまな状態に置かれた身体から音を生み出し、変化する音に合わせてなめらかに体勢を変えてゆく。彼らが発するのは、抽象的な音、反復する音、詩的あるいは物語的な音などさまざまである。9人の身体と声は重力と戯れ、そして抗う。互いの体を避け合いながら、繊細なポリフォニーを創りあげてゆく。合唱は、電子音を伴って一体感を打ち破りながら盛り上がりを見せ、または秘教的な祭礼のように停止する。彼らの身体は機械仕掛けの寓意のなかを生から死へと進んでいくのだ。テクノロジーの複雑性と生身の身体の叙情が融合した『Pendulum Choir』は創世的な特質を備えた作品と言える。
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Pendulum Choir
ミュージックパフォーマンス
Cod.Act (Michel DÉCOSTERD / André DÉCOSTERD) [スイス]
9人のアカペラと18の油圧ジャッキからなるオリジナル合唱作品。歌い手たちは角度可変の台座の上に立ち、生きた音響要素となる。9人はさまざまな状態に置かれた身体から音を生み出し、変化する音に合わせてなめらかに体勢を変えてゆく。彼らが発するのは、抽象的な音、反復する音、詩的あるいは物語的な音などさまざまである。9人の身体と声は重力と戯れ、そして抗う。互いの体を避け合いながら、繊細なポリフォニーを創りあげてゆく。合唱は、電子音を伴って一体感を打ち破りながら盛り上がりを見せ、または秘教的な祭礼のように停止する。彼らの身体は機械仕掛けの寓意のなかを生から死へと進んでいくのだ。テクノロジーの複雑性と生身の身体の叙情が融合した『Pendulum Choir』は創世的な特質を備えた作品と言える。
優秀賞
新人賞
審査委員会推薦作品
Gestus: Judex
メディアインスタレーション
Hector RODRIGUEZ [スペイン]
海の形
インスタレーション
潘 逸舟
がそのもり
映像インスタレーション
重田 佑介
はな
映像
田坂 端子
ヒバリ~震災義援音楽配信プロジェクト~
Web
間部 令子/ベンフィ 杏里沙/村井 貴
開かれた遊び、忘れる眼
映像
ALIMO
まえだかるた
映像
前田 結歌
ほんの一片
グラフィック
佐野 友紀
Air Blue
デジタルフォト
吉田 和生
Boxes
インタラクティブアート
PARK JeongHo
Default
映像
Marcantonio LUNARDI
Dancing for Airports (→arrival) , Dancing for Airports (departure→)
グラフィック
パラモデル
Express Fight Club (Version V)
メディアパフォーマンス
post theater (Max SCHUMACHER / TANAHASHI Hiroko)
For Land Creation
映像
CHOI Jisu
Frozen Leaf
映像インスタレーション
平川 祐樹
Immersive Room
映像インスタレーション
澤村 ちひろ
Human Birdwings
Web
Floris KAAYK
My Sputnik
デジタルフォト
古屋 和臣
Molding the Signifier
インタラクティブアート
humane after people (Darija CZIBULKA / Ivor DIOSI)
Schinkel Time
映像
Thomas MOHR
People Staring at Computers
メディアパフォーマンス
Kyle MCDONALD
skinslides
インタラクティブアート
大脇 理智
The Army of Luck, or: The Global Pursuit of Happiness
インタラクティブアート
Boris PETROVSKY
The EyeWalker
インスタレーション
エキソニモ
torso/paradise
デジタルフォト
藤本 涼
transformation cell -web site exhibition-
グラフィックアート、ウェブ
ボンゴ・ヤマグチ
Years
メディアインスタレーション
Bartholomäus TRAUBEC
311メモリーズ
Web
北本 朝展/緒方 壽人
審査講評
- 三輪 眞弘作曲家/情報科学芸術大学院大学(IAMAS)教授「切実さ」への共感電気を使うことが、遠い未来にまで続く核廃棄物処理の問題と結びついていたことを思い知らされた3.11以後、電力を前提とした芸術表現というものを考えることなど可能なのだろうか? 情報ネットワークに包囲され管理されて生存を続ける僕らは「自由に」何かを創造することなど本当にできるのだろうか? そのようなことを考えざるをえない日々のなかでの作品審査は、それらの問いに対する世界中の作家たちからの応答を求めるような作業だった。何かしらの「答え」や未来への可能性を探したのではない。そうではなく、「僕らが今手にしているテクノロジーとともに"あなた"はどのように行動したのか?」と彼らに問いかけたという意味である。そこではもはや(西洋)芸術史のなかでのみ語られるような「美」という価値は意味をなさない。問われているものは表現に対する作家の「切実さ」のみである。もちろん、作品である以上 、アイディアの独自性やそれを実際に「やってみせる」意志と技術、「才能」などと呼ばれる、他人には真似のできないセンス、そして「結果としてうまくできているのか?」、すなわち完成度などの評価を度外視することはできない。しかし、たとえこれらのすべてが揃っていたとしても、表現に対する「切実さ」、つまり作家の内なる必然性なくして芸術は成立するはずはなく、たとえ「評価」はできたとしても、僕らは心の底から作品に「共感」することはないだろう。......このように書くと何か生真面目で難解な作品ばかりが選ばれたように思われるかもしれないが、結果は発表されたとおりである。喩えて言えば、ある厳しい状況に置かれた時、人は号泣することもあれば、顔色ひとつ変えないことも、また大笑いしてみせることもあり、それらはどれも間違ってはいないはずだ。
今回の審査は僕にとって、そのような彼らの「切実さ」に対する精一杯の返答だった。 - 原 研哉グラフィックデザイナープロセスの精度と表現時間へのデリカシー大賞に決まったパフォーマンスの作品は、意外性と実験性に富んだ意欲的な試みであった。アカペラを歌う十数人の集団の一人ひとりが、「立つ角度と方向」を自在に制御できる装置に装着されて、合唱を展開するというものである。集団がまっすぐに立っている、という固定された位置関係を動かすという着想の意外さ、斬新さに加えて、それを実現する装置の精緻なつくり込みによる、具体化の完成度の高さがこの作品を際立たせていた。立ったまま人間を放射状に配置したり、その位置関係に運動性を与えたりという発想は、したたかで丁寧な装置の準備によってのみ具体化が可能で、そうした過程の確かさが表現の衝撃性の背景にある。そういう意味で、メディア芸術祭のアート部門の最高賞にふさわしいと思った。
審査を担当して3年目になるが、毎年感じることは「表現時間」に関する感受性についてである。ひとりの人間が持ちうる時間が有限であり、今この瞬間にも、鑑賞に時間を要する作品が爆発的に制作されつつあるという状況に対するデリカシーの働かせ方とでも言おうか。もちろん、簡潔に短いほうがよいというような短絡ではない。適切に冗長さを始末できるセンスを期待したい。
一方、静止画像の作品に精彩が見られないのが残念だった。特に「デジタルフォト」という領域で、新たな空気を生む作品に出会えなかった。これはジャンルの設定に問題があるかもしれず、グラフィック部門に集約されてもいいかもしれない。いずれにしても、動く現実を静止させるエネルギーの結晶をこの分野には期待したい。
記憶のなかには、人工衛星から撮影した遠い天空からの超望遠のような家族写真が印象に残っている。映像そのものも美しいが、今日、人間を見る視点として、パース感のない、しかもクリアな天空からの写真に不思議なリアリティを感じた。子どものみが時折、見えないはずのカメラを見ている視線が面白かった。 - 高谷 史郎アーティスト時代と不可分のメディアアートメディア芸術祭とは何なのか? それは必要なのか? もし必要と考えるならば、いったいどのような形態が望ましいのか? 同時に、この時代において作品を評価することが正しく行なわれうるのであろうか? もしそのようなことが可能だとすると、それはどういった視点に立って可能なのだろうか?今回、審査委員という立場で数多くの作品を見た。そして、作品をつくるという行為について考えさせられた。
「数多くの作品のなかから選び出す基準とは何なのだろう?」と考えつつ、「芸術という行為でしか成しえない感動や衝撃を与えられるかどうか?」ということを基準に見た。すなわち、それらの作品がメディアアートかどうかといった定義などは考慮していない。それぞれの作品は、それぞれの価値を持ち、相対化されない絶対的な価値を持っていると思う。今回選ばれなかった作品からも、今後次々と面白い表現が生まれてくるだろうと想像している。またそれは美術という分野にとってどういった影響を及ぼすのか? など、いろいろ考えさせられる契機となった。
また、メディア芸術祭において、今までにない新たな試みを評価し、新たな方向性を発見していくことが望まれ、それらの過程の結実として展覧会があるのだとしたら、夏に作品を募集して秋に作品を選び冬に展覧会を開催するという、現在の日程では短すぎると思われる。もう少し長いスパンで取り組まなければ、続ける意味自体が問われることになるのではないだろうか。
展覧会のクオリティがメディア芸術祭のクオリティを見極める最も重要なファクターであるという認識を共有しなければならないし、作品とは、資料をウェブやファイルで眺めることではなく、作品そのものを実際に体験しなければ意味がない。
メディア芸術、時代と不可分のアート。写真がパーソナルなメディアだった時代は遠い過去となり、そして、写真、映画、ビデオ、デジタルムービーとつねに変化してきた映像メディア。インターネット環境の整備とともに、映像作品が増えているのは面白いと感じた。 - 岡部 あおみ美術評論家未来の共有へ向けた、いま・ここの時空間とメディアの可能性東日本大震災から2年近くが経ち、震災にまつわる美術展や公演がよく開催されるようになった。今回の文化庁メディア芸術祭の国内応募作にも、震災を契機につくられた卓越した作品が見られた。心を整理し独特な方法論に昇華して、さまざまなメディアに落とし込んだ貴重な証言として豊かに結実している。そのうちの何点かを公開し、感動を分かち合えることを嬉しく思う。 大賞と新人賞にパフォーマンス作品が選出されたが、受賞作以外でも木の枝に立ちチェーンソーでその根元から枝を切って自ら転落するといった、コミカルで命がけの映像をはじめ、他の部門でも身体行為を中心にした作品に印象深い表現が多かった。ソーシャル・ネットワークなどの広がりとともに、ある意味、「いま・ここ」の時空間の共有や願望が、逆に再認識されているに違いない。
グラフィックアートとデジタルフォトの分野では、福島の空気中の放射能を樹木に重ね合わせて表現した作品や、震災の巨大瓦礫のイメージに絵具を重ねる若手作家の作品が心に残った。またロシアの飛行場を淡々と映してホームレスと思われる男の言葉だけを流す優秀賞の映像は、単なる記録を超えて、社会への真摯な問題提起に富み、メディアの曖昧な真実と虚構の境界もさりげなく示唆している。インタラクティブアートのカテゴリーで応募して新人賞を受賞した作品は、視覚の多様性を伝える壮麗なメディアインスタレーションとも言える大作である。だが一般に、こうした領域の作品は高度な技術や開発が必要となることが多く、装置の先端性に重点が置かれやすい。作家の世界観や思想といった、生きることへの問いや芸術概念がより明確化することを期待したい。
3.11の震災以後、多数の作家たちが残した映像をウェブで発信する優秀賞受賞作、そして各国の現代音楽の作曲家と演奏家が被災地の義援を目指して構成されたウェブ作品など、過去を忘れず、未来の共有を可能にするメディア独自の手法で生み出された優れた作品に心打たれた。 - 神谷 幸江今日の芸術としてのメディア芸術映像に溢れ、音に溢れ、情報に溢れる私たちの日常を、ダイレクトに受け止め、それを表現へと転化していくことを、現代のメディア芸術は担っていると言えるだろう。アート部門へ寄せられた応募作品は1800点を超え、その膨大な作品数と、そこから立ち上る熱気に驚かされるばかりだった。岡本太郎は1954年刊行の著作『今日の芸術』で、「時代を創造するものは誰か」と投げかけた。今日のメディア芸術祭に集った創造への欲求とそれが結実した造形に、私たちの生きる時代のテクノロジーに触発されて生み出された「今日の芸術」の一端が居並んでいると感じた。
60年代半ばに出現したポータブルなビデオカメラが、一度限り演じられるだけだったパフォーマンスを、記録し繰り返し上映可能でサステイナブルな新たな表現ともなる後押しとなった。今回は初めて「メディアパフォーマンス」の応募ジャンルが設けられ、表現の最も基本的メディアである身体がテクノロジーと掛け合わされていくさまざまな試みが登場している。大賞を受賞した『Pendulum Choir』は、コーラスという歌声によるパフォーマンスが、マシーンの動きをプラスされることで、どこかアニメのような身体、キネティックな要素を加えた新たな表現に昇華した感動的な例だった。新しいテクノロジーは日常にあって、私たちがより速く、より広くつながっていく恩恵をもたらしてくれる、開かれたものでもある。そのなかでアートは楽しく、優しく、口当たりのよく、皆に受け入れられるものであることが自明のようになってはいないか。それは疑ってかまわない。『今日の芸術』で岡本は言っている。芸術は「きれい」であってはならない、「うまく」あってはいけない、心地よくあってはならない、と。アートが常識や既成概念を疑い、新しい価値観のあり方を探り、何を伝え、何を考えるべきかという問いかけを自省的に促すものであるということを今一度考えてみるべき転機に私たちはあると言える。