17回 受賞作品エンターテインメント部門Entertainment Division

大賞

優秀賞

新人賞

審査委員会推薦作品

審査講評

  • 久保田 晃弘
    アーティスト/多摩美術大学教授
    メディア芸術祭だからこそできること
    昨年と違って今年は目玉が無いなぁ、というのが応募作品を一望する前の予想であったが、実際に一つひとつの作品を審査する過程で、逆に昨年以上に多様であったり、次の時代の萌芽が垣間見られるものが多いことに気付き、審査は混戦を極めた。ビッグにせよスモールにせよ、最近はさまざまなデータを活用した作品が増えてきたが、今回大賞を受賞した『Sound of Honda / Ayrton Senna 1989』は、まさにその「データで人は泣けるか」ということに正面からチャレンジした作品であった。しかしそのことが、ある特定の世代のセンチメンタリズムや共同幻想に訴求することはさして重要ではなく、この作品のポイントは「人間の感情は数字でコントロールできる」ということを身近な例で実証した戦略(=人間観)にあり、昨今のサイボーグや遺伝子組み替えの議論とそのテーマは深く通底している。その他にも、F1とは逆にDIYテクノロジーでデータをアーカイヴすることで、「いま・ここ」というありきたりの時空を超えたコミュニケーションを可能にする作品や、「未来は常に過去の中にある」ことを再確認させてくれる劇メーション作品などが受賞した。作者の意図に共感するだけでなく、それを超えた解釈を試みることが、文化庁メディア芸術祭に限らず「賞」というものが目指すべき役割である。広告作品に代表されるように、最近はこのエンターテインメント部門に限らず、さまざまなメディア芸術作品が社会の中で活用され、目立つようになってきたが、その一方で個人の密室的な作業による、だからこそチームによる作業からは決して生まれない、固有の人間の生の息吹が感じられる作品を、僕は大切にしていきたいと思う。SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)による情緒過剰なポピュリズムが蔓延する現在、そうした作品こそを、この「メディア芸術祭」で評価していきたい。審査委員も応募者同様に、このメディア芸術祭「でも」できることではなく、メディア芸術祭「でしか」できないことは何か、ということをいつも考えている。
  • 中村 勇吾
    インターフェースデザイナー/tha ltd.
    祭りと手芸
    エンターテインメント部門を、文化庁メディア芸術祭における「その他部門」と私は勝手に呼んでいる。しかし、個人から企業までのさまざまな主体によるさまざまな文脈の作品が「エンターテインメント」という言葉上で交錯しあい、新しいチャレンジで人々を楽しませようというサービス精神にあふれた作品たちが一堂に会している、という点で価値ある場所になっている。応募作品の多くが今の「世間」に近いところで実施されていることもあり、毎年比較的はっきりとした傾向が見てとれる。全体として、よりスケールの大きな「興行」的性質を帯びていく流れと、より個人的な文脈や嗜好に根差した「手工芸」的な制作に向かっていく流れ、これらの二極化がますます強まっていることを改めて感じた。前者では、より多彩な技術と、より共感性の高い物語を融合し、より多くの動員とともに、ますます洗練を見せている。映像やウェブの媒体を問わず、そこには必ず共感し熱狂する人々が取り込まれ、ひとつの興行として価値付けされた新しい「祭り」へと向かっていくような気配を感じる。一方、後者では、各個人の中でメディア表現がより内面化され、ますます豊かに多様化していく様子が見てとれた。部門の特性なのか、いわゆる「作品を問う」野心よりも「やってみました」「作ってみました」といったカジュアルな動機を感じるものが目立ち、SNS上における各人のタイムラインや、趣味や属性の似た人々によって形成されるクラスタ空間内で色濃く醸成された彼/彼ら独自の「良さ」が無邪気に表出されたような作品が、より印象的に映った。以上のような「その他部門」における二極化の進行状況を、「より」と「ますます」が異常に多い文章として書き記すことしかできないというつたなさは一審査委員として恥じ入るばかりだ。しかし私個人としては、今回の審査の価値付けの基準が、純粋な作品の出来不出来以外に強く見出せなかったこともあり、受賞作品それぞれの個性に等しくご興味を持っていただければ幸いである。
  • 宇川 直宏
    現在美術家/京都造形芸術大学教授/DOMMUNE主宰
    「秩序とノイズ」この対立する概念
    メディア芸術とはいったい何なのか? 僕に無数の応募作品が問い掛けてきた......。84ヵ国から集まった形態も構造も全く異なる4,347作品は、幻想世界の深い霧の中で蠢く未確認生物であるかのように、それぞれが独自の自我を保ち、呼吸をしていた。生きている、つまり、生命があるという、ただそれだけの定義が生物を生物たらしめるように、メディア芸術も、新たなる技術発明を芸術的表現に昇華させてさえいれば、ただそれだけでメディア芸術として成立するのであろうか? このような漠然としたイメージに僕が捕らわれた理由は、生物もメディアも種の起源と進化がその「成り立ち」に重要な意味を持つからである。脈々と継承される祖先の遺伝子は、社会の影響を受け入れ、内部で化学変化を起こし、進化を遂げ、新たなるエネルギーを放つ。この生命秩序ともいうべき"メディア芸術構造"は「作品」を産み出すための安定したシステムだ。しかし、そのような巨大構造体から逸脱し、突然変異を遂げた奇異なる生体の発現にこそ、真の意味で類例のない「美」が宿るのではないか? 今回、功労賞を松本俊夫氏が受賞された。松本氏は1950年代後半から、実験映画、ビデオアート、メディアアートの開墾を現在までも実践し続ける"真の功労者"である。氏と僕はこれまで幾度も対談しているが、そこでいつも議題に上がるのは、「秩序とノイズ」についてである。この対立する概念を巡るやり取りにおける氏の言葉をここに紹介したい。

    「秩序は物事を捉えるパースペクティヴが均衡を保っている整合的状態であり、ノイズはその状態を逸脱し、混乱させるもの。つまりノイズは世界を成立させる固定化された境界線上に存在し、抑圧され、無視され、時には暴力的に排除されたりしている。つまり、整合的に数値化することを許さない力、あるいは概念化することができない力がノイズには宿っている。これらノイズを活性化し、反乱を起こさせることが創造におけるひとつのあり方だと......。」

    "メディア芸術"の構造を理解し、それら森羅万象の中から掛け替えの無い「美」を見極めるには、まずは、秩序から逸脱し果てたノイズを可視化させる。そのことが最も重要なのだ。僕と松本氏は対話の果て、いつもこの結論に辿り着く。「ノイズにこそ精霊が宿る」と......。
  • 岩谷 徹
    ゲームクリエイター/東京工芸大学教授
    表現素材と表現手法の再認識
    メディアの態様が進化変貌している中で、応募された作品にはエンターテインメントとしてどのように表現していくかの思考の起点が、表現素材と表現手法を再認識したことにあったのではないかと強く感じた。エンターテインメント部門は、ゲーム、映像作品、ガジェット、ウェブ、アプリケーションなどと、どのジャンルに属するのかと迷うほどに混沌としていたが、各々の作品は考え方や狙いがとてもピュアで、表現の仕方も奇をてらわずストレートなものが多かった印象を持っている。その中でも『Sound of Honda / Ayrton Senna 1989』は審査委員全員の高い評価で迷いなく大賞として決定した。この作品は表現素材であるアイルトン・セナの走行データに着目し、光と音で当時の情景をよみがえらせることができるのでは? とデータを再認識した着眼点がとても秀逸で、元のデータを巨大インスタレーションへと変貌させたチームの総意が熱く伝わってくるプロジェクトである。審査区分としては「ゲーム」ジャンルであった、展示型の『スポーツタイムマシン』も、過去の自分の走行データやスポーツ選手のデータと一緒になって競う点で、基礎データの再認識を行った作品といえる。『プラモデルによる空想具現化』や『燃える仏像人間』なども、確立した従来の表現手法に拘って時間を掛けてじっくりと制作された作品で、テクノロジーのあり方を問う姿勢が見られた。一方、驚きを感じるような新しさを示すゲームが少なかったのは残念であったが、審査委員会推薦作品の『龍が如く5 夢、叶えし者』などは、テーマ背景と新たにメディア展開できる可能性を示した作品として最後まで議論された。松尾芭蕉の句「閑さや岩にしみ入る蟬の声」から、人はそれぞれに情景を思い浮かべる。人は記憶とともにイメージする能力を有しているのであるから、過剰にデータを浴びせるのではなく、基礎的なデータを再認識し、研ぎ澄まされた必要最小限の情報での表現を模索し挑戦して欲しいと実感した。
  • 飯田 和敏
    ゲーム作家/立命館大学映像学部教授
    モノ飛び交う供宴、物と者と喪の
    メディア芸術におけるエンターテインメント作品は複製され広がっていく。同じ環境を用意すれば、いつでもどこでも自由に再現することができる。ただ、鑑賞はそれぞれの生活の場面で行われるため、体験の質を作者が完全にコントロールすることはできない。こうした前提で、複製、拡散の果てにある「個」を見据えた作品に強く惹かれた。『やけのはら「RELAXIN'」』はキュートな映像作品だが、"モノ"のうごめきによって、部屋の主である住人が間接的に描かれている。角度を変えると、それは" 喪"のうごめきにも見える。『rain』の主人公は透明人間で、時に操作しているプレイヤーの知覚からも逃げようとする。『BADLAND』のとにかく生き続けようとする必死な生命体はタフなキャラクターだが、黒い影のままだ。『龍が如く5 夢、叶えし者』では虚構における活動の場すら奪われかねないアウトサイダーたちが活躍している。進行中の社会問題にやわらかく寄り添いながら新しい産業を創出している『東北ITコンセプト 福島ゲームジャム』と、空間における公私の境界を撹乱する『Snake the Planet!』を対になるものと捉え、現実世界とコンピュータゲームの関係について改めて考察してみることも刺激的だ。絵画における「図と地」の概念を本年応募作品の傾向に置き換えると「存在と不在」になるだろう。『Sound of Honda / Ayrton Senna 1989』は、今ここにはいない"者"と戯れることを、圧倒的臨場感で成功させた。思えば不在者との交流は人類の根源的衝動だ。現代の作家は、さまざまなテクノロジーを用いてこれを展開している。それによって私たちは近い将来、死生観を更新することになるのかもしれない。人々が日常的に接しているエンターテインメントがそれをもたらすのは愉快な想像だ。