18回 受賞作品アニメーション部門Animation Division

大賞

優秀賞

新人賞

審査委員会推薦作品

審査講評

  • 和田 敏克
    アニメーション作家
    若い短編作家たちのパワー
    今年度も、審査は短編371作品をすべて鑑賞するところから始まった。昨年は500作品を超えていたので、本年度は順調かと予想していたのだが、これが困った。見るべき作品、紹介したい作品は逆に増えていたのだ。全般に、今年の学生作品は少数精鋭。一番目立ったのは、学生時代にアニメーションを学び、卒業後も作品を発表し続ける20代後半~ 30代前半の若手作家たちのエネルギーあふれる作品群。学生ならば学校のバックアップがあるが、問題はそのあとである。短編は、特にビジネスとして成立しがたい分、自らの力で、完全自主か、公的な文化支援などを勝ち取って制作するしかない。そんな中で、しかし嬉々として世界を股にかけ、新しい作品を生み出してゆく力には圧倒され続けている。「とにかく紹介したい!」と思う作品は多々あれど、審査委員会推薦作品の枠も限られ、非常に歯痒(はがゆ)い思いの審査となった。受賞8作品のうち、大賞を含め5作品が若手作家の短編となったことも、その若いパワーへの賞賛の表れだろうと思う。
    内容的な傾向で印象に残ったのは、「個」とその「存在」をテーマとした作品の多さだ。元来、自主短編としては多いテーマであり、瞬時に世界とつながってしまうコミュニケーションが発達すればするほど、かえって切実さは増しているのかもしれない。ただ今回、特に時間軸を壊し、ストーリー的な展開を解体する心象的な作品が多くみられた気がする。優れた表現もあるが、作品そのものが客観性を失い、作者の個的な枠に嵌(は)まり込み、むしろ型通りのプライベートフィルムになってしまう事も多い。その中で、受賞作『The Wound』や『コップの中の子牛』『Man on the chair』は個とその心理を客観的に捉え、しかも表現として突き抜けることで普遍性を獲得している傑作といえるのではないだろうか。そしてそれらの傾向にあって、伊藤有壱『Blue Eyes -in HARBOR TALE-』や手塚眞『森の伝説 第二楽章』といったベテランたちの熱意と、ストーリーテリングがやはり光っていたことも、付け加えておきたい。とにかくそれらがすべて俯瞰できる第18回の文化庁メディア芸術祭であった。
  • 髙橋 良輔
    アニメーション監督
    ゆたかな疲れに身をゆだねて
    審査をしながらも、そしてそれを終えた今もある考えにとらわれている。それは日本においてのテレビアニメーションの位置づけというか役割というか、もうひとつ重ねて言えば貢献というかについてである。今回私が「劇場アニメーション、テレビアニメーション、オリジナルビデオアニメーション(OVA)」の審査区分を担当したことにもよるが、出品作品の多くがその出自をテレビアニメーションのシリーズに置いているように見えた。私見だが、日本のアニメーションは1963年以前と以後ではその存在の意味合いを一変させたのではないかと思っている。改めて記すまでもないが63年というのはテレビ30分シリーズアニメーションの『鉄腕アトム』が生まれた年だ。それ以前、日本にも普通の意味でアニメーションはあった。立派な作品も多数存在している。しかしテレビシリーズの鉄腕アトムの誕生によって、日本のアニメーション事情は世界のそれと決定的に違ったのではないだろうか。カンブリア大爆発ではないが"アニメ大爆発"が起こったのだ。ジャパニメーションという言葉があり、意味合いはさまざまに解釈されるが、主には世界に類を見ない多様性だと私は思っている。過激なロボットアクションものがあるかと思えば、王道の児童文学的な作品もある。SFやファンタジーものもあれば、学園ものスポーツもの、歴史に魔法、ユルユル萌え系......となんでもござれだ。ありとあらゆるジャンルが、ユーザーを求めてしのぎを削っている。一度確立されたジャンルは、ユーザーの肥えた目に鍛えられ、繰り返し制作される中でそのクオリティを上げてきた。多分この様なことは世界には稀で、ある意味驚きである。
    今回の「劇場アニメーション、テレビアニメーション、オリジナルビデオアニメーション(OVA)」の受賞作を振り返ればその思いをいよいよ強くせざるを得ない。翻って「短編」に目を向ければその作家性の豊かさと完成度にこれまた驚かされた。
  • 森本 晃司
    アニメーション技術の進化と、「個性」という表現の省察
    今年も国内外から才能豊かな長編アニメ、TVシリーズ、短編アニメーションが集まり、アニメーション表現の奥深さを再確認しながら、新しい表現の扉を開ける行為がいかに大変になってきたかを痛感している。国内外の作品のレベルの差がプロ・アマ関係なく、均衡していることと、少々個性が似通ってきている点など、その辺りは国境が無くなり世界が更に一段と身近になってきたことが関係していると肌身に感じる。ただ、短編作品は特異性を発揮できる表現分野だと認識しているが、通年から比較してみると表現の振り幅が弱くなった印象を受けた。個人でCGIが使えることや、ネット上に溢れているアニメーション作品や映像作品を、容易に鑑賞できる時代に、独創性のある形式と主題に対する省察と観客との共感をどう導き出すのか。いつの時代もどの分野でも表現を目指す以上、浮き彫りになる問題点であるが、より一層考慮しながら創作に挑まなければならないと、作品を通して感じている。その中において、今回受賞した大賞作品『The Wound』は、人間の中に住まう自我との対話という、長年先駆者たちが挑戦してきた主題を独自のスタイルで表現豊かに紡ぎ出した作品であった。新しい表現の扉を開ける鍵が、身近にあったという好例である。やり尽くされているからではなく、それをどう磨き、自分でしか感じられない世界をどう形にし、伝えるか。表現の根本である独創性を磨く目を鍛えたいものだ。自分としては、『映画クレヨンしんちゃん「ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」』『キルラキル』『ピンポン』などのリミテッドアニメの進化系に、勢いと、良い意味での振り切った演出手法というアニメーションでしかできない表現の魅力があり、楽しむことができた。
  • 小出 正志
    アニメーション研究者/東京造形大学教授
    新たな時代へ
    文化庁メディア芸術祭アニメーション部門の審査委員を務めて2年目。今年は主査も担当した。いずれにしても作品の審査や審査会の進め具合など、ある程度は要領を得てきた感がある。ここでは短編も長編も、インディペンデント作品も商業作品も、一般作品も学生作品も、CGも手描きも、また国内外を問わず、ともかくアニメーションはすべて一部門で総合的に審査・評価し、賞を定める。そのデメリットは感じつつも、この方式の良さやおもしろさを改めて強く認識した。
    良さの上での課題もある。例えば「劇場アニメーション、テレビアニメーション、オリジナルビデオアニメーション(OVA)」か「短編アニメーション」かの審査区分は応募者が決めることになるため、審査する側としては「短編」での審査がより妥当と思われるものが「劇場・テレビ・OVA」に応募されていたりもするし、間口の広い割にはそもそも「アニメーション部門」ではなく「アート部門」や「エンターテインメント部門」に応募されたりすることもある。筒井康隆の言に依ればSFならぬ「"アニメーション"の浸透と拡散」なのかも知れないし、W. ペイターの言を借りれば音楽ではなく「すべて芸術は絶えず"アニメーション"の状態に憧れる」ことなのかも知れない。ともあれアニメーション部門の審査に携わるとアニメーションの多様性や可能性を深く実感する一方で、その社会的認知や領域的独立性が高まるとともに、映画祭や芸術祭などにおけるアニメーションはあるひとつの枠組みの中に追いやられて行くような印象を持たざるを得ない。
    とはいえ本芸術祭アニメーション部門は確実にアニメーションの量的・質的拡大と多様性の高まりを捉えてきている。昨年は海外作品の長編、それもドキュメンタリーアニメーションが大賞を受け、新人賞は日本の若手短編作家が独占したが、今年も海外の作品、しかもほとんど新人と言ってもよい若手作家の短編が大賞を受賞した。区分を超えた総合的審査であり、日本国文化庁が設けた賞であるが国・地域を問わず応募されるので、これは当然のことかも知れないが、多くの人手と予算で作られる長尺作品と比べて不利が否めない短編、しかも海外作品が昨年に続き大賞となったことはこの芸術祭の審査の特色や国際的な広がりを示したといえるだろう。また若手作家の受賞はこの分野における新たな才能の台頭が並々ならぬものであることの証でもある。確かに新人離れした巨匠の風格すら感じさせる逸材であった。昨年の講評でも触れたアニメーション制作のデジタル化が成熟し、一方でこの分野の高等教育の拡大もそれを支えているといえるだろう。
    優秀賞・新人賞は日本の商業アニメーションの健在ぶりを示した。『映画クレヨンしんちゃん「ガチンコ!逆襲のロボとーちゃん」』は毎年多数のシリーズが製作され続けるプログラムピクチャー的な作品群からも珠玉の作品を数多く生み出すという日本のアニメーション界の象徴的な一編であり、『ジョバンニの島』は社会派的なジャンルにおいても良質な作品を作り上げる日本のアニメーション界の地力を見せた。新人賞の山田尚子監督は既に実力派監督の呼び声も高いが、日本のアニメーションの独自性や多面性を示すジャンルのひとつである日常系を代表し、また女性クリエイター躍進のシンボルでもある。短編は優秀賞・新人賞ともに海外勢が制したが、いずれ劣らぬ傑作で、特に新人賞はこの世界での学生作品・若手作品の質の高さを示すものとなった。
    特筆すべき点は功労賞で、アニメーションの分野からは渡辺泰氏が受賞した。これまで作家・クリエイターの顕彰は多数に上り、近年では技術スタッフの顕彰も始まっていたが、この分野では批評家や研究者の顕彰はほとんど皆無と言ってよい状態だった。大賞・優秀賞・新人賞・功労賞を通して眺めてみると、本芸術祭もアニメーションの世界も新たな時代に入ったといえるのかも知れない。
  • 大井 文雄
    アニメーション作家
    作品の持つ重力の差
    今回の審査を通してやや物足りないと感じたことは、日本から応募の短編作品に力強さが少し足りないように思えたことである。去年は若々しく個性溢れる作品が数多く見られ賑々(にぎにぎ)しかったことを考えると、ちょっぴり残念であった。対照的に大賞の『The Wound』(ロシア)や優秀賞『PADRE』(アルゼンチン)、『The Sense of touch』(フランス)に見られるように、海外の短編は普遍性のあるテーマに対して立ち向かおうとする作者の強い姿勢が感じられる本格派の作品である。新人賞には『Man on the chair』(韓国)と、『コップの中の子牛』も国内からの応募ではあるが、中国人監督による中国文化を背景に人が生きることを正面から見据えた重厚な作品である。賞の選からは漏れた審査委員会推薦作品にも、海外からは重みのある秀作が数多く見られた。
    日本の作品を海外のものと単純に比較するのはナンセンスかもしれない。応募作品だけをもって、すべての傾向として見ることはできないが、今回の短編の応募作品を概観する中で、相対的に見て日本の作品には" 重力"を感じさせるものが少なく、未成熟さを感じさせるものも少なくなかった。これは昨今の日本の、特に若者文化に見られる低年齢化をそっくり反映しているためであろうか。それともネット社会における、あまり深く考えずとも発信し続けることに慣れてしまった世代の持つ生理のせいか。社会性や精神性を語ることを胡散臭(うさんくさ)く野暮なものと見る、ある種の軽さをよしとする風潮と無関係ではあるまい。個性的である(と思い込んでいる)プライベートな視点から、内向きに見ているものを表現することで自己完結してしまい、他者へのメッセージ力が弱い感がある。そうした作品であろうとも、弾けるようなパワーか、引きずり込まれそうな重力がそこから伝わってくれば、未成熟を凌駕(りょうが)して新鮮さが際立ち、印象はまったく違ったものになるのだが。