18回 受賞作品アート部門Art Division

大賞

優秀賞

新人賞

審査委員会推薦作品

審査講評

  • 三輪 眞弘
    作曲家/情報科学芸術大学院大学(IAMAS)教授
    アートの現在形を発見する
    今までと変わらず質の高い作品が多く集まった、僕にとっては3回目となるアート部門の審査はこれまでと同様に楽しく、また困難を極めた。ただ、以前の2回と比べると何か「驚き」が少なかったように感じた。ここでいう「驚き」とは、新しいテクノロジーとともに時々刻々と変化していくこの世界を、誰もが思いもよらなかったような視点から捉え、作品化した作家が与える「衝撃」のことである。昨年であれば、例えば日常的には意識化されにくい「ビッグデータ」や「Google Maps」などの新しい技術が、今後の僕たちに対して持ち得るさまざまな「意味」を鮮やかに浮かび上がらせるような作品が審査委員たちを驚かせた。1年後の今、応募作品の多くはもちろんさまざまな意味で「アップデート」されているわけだが、それらが以前にあったものの「アップデート」のようにしか見えないことが多かった。世界中からこれだけの数の応募があったにも関わらず、そのような「驚き」が少なかったことは振り返ってみると不思議であり、また、昨年のグラフィックアートのような、特定の分野で「面白いことが起きている」というような発見もあまりなく、良くいえば「メディアアート」がひとつの表現様式、すなわちジャンルとして安定してきたともいえるのかもしれない。しかし、それは同時にこの「ジャンル」の定義を否定することでさえあり得る。なぜなら、このアート部門の審査は、昨年の審査委員である後々田氏の講評を借りれば「アートの現在形を発見する」こと、つまり、ひとつのジャンルが確立するのではなく、それを規定する枠組みそのものを疑い、新たに発見していくことに違いないからである。そのような中で、優秀賞に選ばれたメディアインスタレーションとしての「発明装置」(『これは映画ではないらしい』)、グラフィックアートとしての「クリティカル・デザイン」(『Drone Survival Guide』)、メディアパフォーマンスとしての「音楽」(『《 patrinia yellow 》for Clarinet andComputer』)などが高く評価された。
    しかし、今年の全体的な印象は、僕個人がメディア芸術祭の審査に慣れてきたということだけではなく、他の審査委員も感じていたようだ。昨年同様、最終審査には極めて優れた作品が少なからず残ったのはいうまでもないが「今年の大賞はこれだ!」と審査委員の意見が一致する作品がなかった。いや、より正確にいうと、単純な多数決では大賞として選ばれるべき作品は決まりかけたのだが、議論を続けるうちに審査委員の誰もがその作品とそれ以外の優秀賞となり得る作品との差はあまり大きくないと感じていることがはっきりしてきた。「想定外」の作品が少なかった今回の審査において、「大賞なし」という想定外の結論が出るとは誰も考えていなかったが、無理に決めてしまうよりも、「大賞なし」とすることが、審査委員全員の実感を率直に反映したものになると信じ、その代わりに優秀賞を4作品ではなく5作品にするという結論に達したことを記しておく。
  • 岡部 あおみ
    美術評論家
    最先端の芸術の革命を待ちながら
    今回の応募作には光と音の造形が目立ったが、国際展の普及と現代美術の大衆化によって、レーザー光線やインタラクティブな映像・音響インスタレーションを最近よく見かける。だが現代アートは審美性や五感的なインパクトだけではなく、社会性を重視する傾向が近年際立っており、本展のアート部門では現実と深く関わる批評的な作品も選出されるようになった。とはいえ、例年、大賞は純粋芸術・鑑賞芸術の枠にとどまっている。
    社会とアートをつなぐ方向を模索するなら、ソーシャル・ネットワークやビッグデータを駆使するメディアアートこそ、無限の未開地を渉猟(しょうりょう)できる可能性に満ちている。文化庁メディア芸術祭の審査の喜びは、従来のメディア芸術とは異なるかつてないアプローチと手法で、社会認識を刷新させる驚異的で魅惑的な作品に出会うことだ。美術史の流れでも、概念や言語を重視するコンセプチュアルアートは、造形的にはシンプルな作品が多い。約2年間ソマリアの海賊に襲われた59隻の船舶を調査分析した審査委員会推薦作品『Double Standards-Somali Seajacks 2010-2012』は、まさにそうした流れを組む優れた作品といえるが、身体的受容が重要な展示会場で、伝えたい内容が包括的なレベルで即時に理解されるかというと難しいだろう。
    今回の優秀賞の作品群はみな大賞にふさわしい高度な創造的クオリティを示している。しかし、単純に社会的批評性と、豊かな造形的完成度のパラメータで見る場合、どちらかの極のポールに振れかねない。いつかその両者が融合し、消費にくみすることのない、未来へのメッセージを伝える作品と出会えることを夢見ている。最先端の創造的実験と造形には胸が躍るが、同時に各人の批評性を促し、劣化し続ける世界環境の変化を食い止めようとする息の長い営為も精神を高揚させてくれるからである。素晴らしい現代芸術こそ未来への比類なき心の糧だと思う。
  • 高谷 史郎
    アーティスト
    メディア芸術とは?
    この3年間、文化庁メディア芸術祭のアート部門審査委員を務めた。しかし、当初から予想していたとおり、やはりメディア芸術が分からないままであった。私にとって、作品を作るということは、何らかの形で「メディア」を使うということになる。これは、そのメディアが写真であれコンピュータであれ、私の持っている能力の延長線上にあるメディアを用いて作品を作るという意味においてである。これは、どんなアート作品でも共通で、アーティストは必ず何らかのメディウムを使って作品を作ることになる。
    だとすると、タイトルの「メディア芸術とは何なのだろうか?」というこの問いは、私にとっては、「芸術とは何なのだろうか?」という問いと同義になる。そして、そのことを基準にこの3年間、審査委員としてメディア芸術祭に応募される作品を見てきた。そこで感じたのは、応募に頼ってさまざまな形態のあらゆる作品を集め、その中から新しい意識の作品を見つけ出そうとするだけでは、メディア芸術祭自体の存在意義がなくなるのではないかということだった。新しい意識の作品を見つけるといったことは、特に労力を払わずとも、インターネット上では、簡単にできる行為で、既に当たり前のことだ。何かを発表したければ、インターネット上で公開し、そして誰もが簡単に作品へアクセスすることが可能になる。では、そのような環境の中で、何をすべきか?それを考えると、やはり新たな価値観を作り出すような作品を見つけ出し、今後発展させていくべき方向性を作り出すような機会として、このメディア芸術祭が発展していくことが必要だと考える。
  • 佐藤 守弘
    視覚文化研究者/京都精華大学教授
    メディアを批判的に意識すること
    私自身は、現代アートを専門にしているわけではなく、普段は写真を中心とした近代における視覚メディア―風景や遺影など―の歴史的・理論的研究を主として行っている。そのような私がメディア芸術祭アート部門の作品の審査をするということは、私自身にとって、メディアとは何かを改めて考えなおす機会になった。
    個人的な定義ではあるが、ひとまずメディアアートを、メディアそのものを常に批判的に意識し続けている芸術の総称と考えてみよう。ところが、そもそも芸術作品は、ほとんどの場合、他の文化的制作物と同様、発信者から受信者へ向けて何らかのメッセージを伝達するための乗り物である以上、メディア/媒体ではない作品は、あり得ない。メディアの単数形、メディウム(medium)には、死者の言葉を現世に伝える「霊媒」という意味もあることは、よく知られているだろう(そういった意味で、「メディア芸術」とは、リダンダント[冗長]な言葉であるようにも思える)。
    もう少しメディアについて考えてみよう。ルネサンスの幾何学的遠近法によって、世界はメディアという窓を通じて眺められるようになった。遠近法を用いて絵を描くものは、描写対象から隔絶した視点から世界を写す。絵画が完成したとき、絵の前に立つ観者は、作者と同じ視点を共有して、世界を見る。そこで絵画の表面は透明なものになる。19世紀の機械的複製技術としての写真術や映画の発明は、メディアの透明化を促進した。例えば、ある事件の写真を目の前にして、人は事件そのものを見る―写真という媒体ではなく。
    その窓がネットワークに接続されたコンピュータのディスプレイ上に開いているような状態になって、既に20年以上経つ。昨今のモバイルデバイスの普及とともに、もはやそれは「ニュー」メディアともいえず、私たちをとりまく空気のようなもの、環境そのものになっていると言える。このように、デジタル技術によって多くの媒体―画像も動画もテクストも音も―は、コンピュータ内の数値に一元化されてきたのである。
    一方で、メディアの透明化に抗ったのが、モダニズム芸術であったと考えることもできる。例えば絵画という媒体の固有性―「支持体に不可避の平面性」という物質的条件―を徹底的に追求し続けることが、近代における自律的な芸術を保証するものであった★1。それに対して1970年代以降は、複数の媒体を横断的に使用することが、ごく普通に行われるようになってきた★2。
    先程メディアアートを「メディアを批判的に意識する芸術」と仮に定義してみたが、多くの場合、現代のメディア技術を前提にしていることは間違いがないだろう。ただそこで、メディアの固有性に拘泥(こうでい)するのではなく、メディアを批判的に意識の俎上(そじょう)に載せることは、どのようにして可能なのだろうか。今回の審査では、そのためのさまざまな方法を見たような気がする。
    特に多く見られたのは、メディア技術と人間の身体の界面を探る作品であった。中でも優秀賞に選ばれた福島諭の『《 patrinia yellow 》for Clarinet and Computer』は、生身の人間による演奏とコンピュータによるリアルタイム音響処理を掛け合わせることによって、不可逆的な時間とサンプリング=記憶という形のフィードバックの拮抗(きっこう)を描き出していた。
    メディアの歴史に興味がある私にとって、興味深かったのが、メディアを考古学的に問い直す作品であった。例えば五島一浩『これは映画ではないらしい』が挑むのは、「コマ」という映画の発明以来つきまとってきた最小単位を、光ファイバーと二眼レフのカメラなどの既存の機材を使って、三次元を「二次元にマッピング」するためのオルタナティブなシステムを提示する。そこでは、動画というメディア・システムの誕生が、一種のブリコラージュによって再= 創造されていると見ることもできる。
    メディア技術が空気のように私たちの周りに遍在し、環境そのものとなってしまっている現在、そのことと向き合うことの可能性とともに困難さをも、審査を通じて目の当たりにしたような気がする。
  • 植松 由佳
    国立国際美術館主任研究員
    1877分の0の結果
    審査委員の一人として役を務めるときには、優れた作品との出会いに胸躍らせるという何物にも代え難い喜びもある一方で、受賞作品を選ぶという困難な選択を迫られる。しかしながら今回のアート部門においては、慎重な議論の結果、大賞は該当者なしという苦渋の決断を行った。
    1,800点を超える作品応募があったにもかかわらず、大賞に値する作品がなかったのかと訝(いぶか)る声もあるかもしれない。しかしながら、前述したような優れた作品との出会いがもたらす喜びは審査過程においてあまり感じられず、前年と比べると低調な印象を絶えず持ち続けた。これについては他の審査委員も同様だと想像している。その結果が、審査委員全員が一致して大賞として声を合わせることができずに、優秀賞5点となった結果にも現れている。
    前回に続く審査を経て思うに、10分を超える作品はダイジェスト版の提出が今年度から求められ、それが全体的な応募数の減少につながり、作品がやや生彩を欠くことになった一因ではないかと想像する。とはいえ心に残る作品が全くなかったわけではない。Cod.Actの『Nyloïd』や静止画と動画/映画の関係性を問うた五島一浩の『これは映画ではないらしい』、テヘランとロサンゼルスのイラン人街の様子をC.ディケンズの『二都物語』をモチーフに2面スクリーンで見せる映像インスタレーションである。Anahita RAZMI の『A Tale of Tehrangeles』、絵画的な美しい画面展開を見せるJan CHLUPの『FlatLogic -The Book』、氾濫するSNS利用とメディアが結び付いた時の恐怖すら感じさせるMarc LEEの『Pic-me-fly to the locations where users send posts』などを含むいくつかの作品は完成度の高さや視線のユニークさを見せ、まさに今日の社会をメディアアートというテクノロジーを用いて浮かび上がらせている。来年は大賞の選考が良い意味で難しくなる程の作品が応募されることを願っている。
    また映像作品や映像インスタレーションに応募される作品についても意見が分かれるところがあった。それは「メディアアート」という比較的歴史の浅いカテゴリー故か、あるいは現代美術を取り巻く現在の状況下において、幅広いタイプの映像作品、映像インスタレーションが美術館やさまざまな展示機会に既に発表されているためか、1時間をも超える長編作品やドキュメンタリー作品、映画と考えられるようなものが多く応募されている。これらを「メディア芸術祭」でいかに考えるべきか。これについては前年からも議論されているが、現状を鑑みれば寛容性が求められるのではないだろうか。