21回 受賞作品アート部門Art Division

大賞

優秀賞

新人賞

審査委員会推薦作品

審査講評

  • 石田 尚志
    画家/映像作家/多摩美術大学准教授
    あらためて感じたこと
    アート部門の募集要項には作品のジャンルとして、「インタラクティブアート、メディアインスタレーション、映像作品、映像インスタレーション、グラフィックアート(写真を含む)、ネットアート、メディアパフォーマンス等」と書かれている。映像作品ひとつとってもドキュメンタリーなりアニメーションなりさまざまだし、メディアアートは新しい技術による表現やその思考の探求なのだから、作品の形式や技術は無限だ。アートの語源はラテン語の技術だと言われているから、技術なり装置なりが表現そのものでもあるアート部門の作品群は、翻ってアートとは何なのかを無限の表現方法のなかから立体的に浮かび上がらせるものだ。実際、今回もそうした力を持った多くの作品と出会うことができた。ただ、今回改めて感じたことは、そうした作品はとても繊細で、ネット上での記録映像や資料から果たしてどれだけ正確に理解できるだろうかという、出合う側の技術的問題だった。100近い国々から2000近い作品が集まるという、メディアの発展が可能としたこの豊穣に対し、そのメディア自体を考える優れた作品がその先鋭さゆえに伝わりきらないということがあるかもしれない。何より、作品とメディアの概念自体についてのギリギリの表現の先には、もはやこれまでの作品の概念を超えてしまうものになるかもしれない。作家は自分のためにつくり、それと出合った人が共振するかどうかでしかない。共振する人が多ければいいというわけではないし、専門家がいいと言ったら優れた作品だというのも相当怪しい。それは歴史が教えてくれる通りだ。スポーツではないのだから、そもそも優劣はない。あらゆることが謎だから、芸術はあるのだ。自分の何かが、誰かに伝わるというその共振の震えには、さまざまな時差がある。光や大気や時代や、素粒子や重力や呪術や神の力なりのあらゆる時差とズレも含めて、広義のメディアアートと考えたい。こうした芸術祭での評価は、他者につなぐ精一杯のきっかけであり、同時に現代のメディアの限界の提示でもある。
  • 中ザワ ヒデキ
    美術家
    審査を通じたメディア 芸術批判と国家への提言
    3つ述べておきたい。「落選者へのメッセージ」「アート部門の困難」「国家への提言」である。まず落選、もしくは望み通りの賞に達しなかった作者へのメッセージとして、かつての自分もそうだったのだが応募作を破棄しないようお願いする。萬鐵五郎は生涯最高作のひとつを落選後裁断し、日本美術の損失となっている。また、少なくとも私は3年目の今期を最後に審査委員を退くため、もしあなたが中ザワのせいで落選したと思うなら、来期再挑戦してください。 次に文化庁メディア芸術祭アート部門が、他部門とは本質的に異なる困難をかかえていることについて記す。マンガやアニメーションが、日本国文化芸術基本法や本芸術祭によって、「メディア芸術」(英語で複数形のMedia Arts)の各部門にジャンルごとそれぞれ括られ、振興の対象とされることは喜ばしい。また、娯楽や商用の芸術的表現が、エンターテインメント部門として庇護されることも喜ばしい。一方で、ファインアートの一翼であろう「メディアアート」(英語で単数形のMedia Art)は、メディア芸術の一部門に括られる段階で、結果的に他のファインアートから切り離されている。その証が募集要項の「デジタル技術を用いて作られた」という規定だったが、これが削除されて2年目となる今回も、切り離しが依然として続けられていることが、応募作の全体から感じられた。それは、受賞作すべてがメディアアートの域を出ていないことにも通ずる。切り離しが喜ばしくないことは、三上晴子の「肩書きはアーティストであり、メディアアーティストになろうと思ったこともありません★1」との発言などから明らかだ。娯楽や商用に甘んじず、芸術を芸術としてそのど真ん中から追究しようとするファインアートの側からは、「メディア」という接頭語は不要で、その標榜は言い訳がましい。おそらくそれゆえ、日本の現代美術界にとって本芸術祭はほぼ他人事か、せいぜい新人の登竜門程度の存在感だ。マンガやアニメーションにとっての本芸術祭が、業界の巨匠たちに国家から贈賞がなされる喜ばしい機会であることとは対照的だ。それでもアート部門がメディア芸術に含められるのは、芸術が権威や価値に関わるからだ。その昔、クールジャパン戦略として、日本に長があるとされるマンガやアニメーションを、国が一層、権威強化しようとした。そのとき日本の為政者は、両分野をサブカルチャーとしてではなく、堂々と芸術として価値付けたかったに違いない。ところが西洋に長がある西洋出自の芸術という旧来概念に、まんまと乗っかるのは得策ではなく、また、当時は時期尚早でもあった。これが、両分野を含む日本独自の新概念として、20年ほど前に「メディア芸術」(複数形のMedia Artsはもともと英語には無い)が創出された経緯だったのだろう。すると、この総体を芸術と接続するための保証として、ファインアートの一翼であるメディアアートが必須だったことになる。こうした苦肉の国策が、アート部門の困難として、今日まで皺寄せられているわけだ。これを踏まえた私からの提言は、具体的には現代美術界にとって、本芸術祭が自分事になるよう仕向けてほしいということだ。20年前の枠組は十分その役目を果たし終えたのだから、ひとつめに、アート部門をファインアートの全体としてほしい。募集概要へのサブカテゴリーの列挙をやめればよい。2つめに、募集概要にはむしろ、どういう作品を期待するかという理念を書いてほしい。これら2つは一昨年、二者択一として提言したが、今回は二者両択へと変更する。これら具体的提言の背後には、芸術を芸術としてそのど真ん中から追究しようとする者をこそ大切にしてほしいという国家に対する思いがある。権威や価値の創設に関わる以上、他国を気にしたクールジャパンとかおもてなしとかよりかは、堂々と芸術の語を用い、理念の在処を明示するべきと考える。今期までには叶わなかったが、来期以降、宜しくお願いする。
  • 藤本 由紀夫
    アーティスト
    3年間審査に 関わってきた
    3年間審査に関わってきた。多くの応募作品を鑑賞することで、毎年作品の傾向が変化することに興味を持った。 1年目の第19回の応募作品では、社会や環境に関する状況をテーマとして編集された作品が印象に残っている。当時はイスラム国に代表される、メディアを駆使しての主張を世界中の人々が驚きを持って体験していたときで、個人もしくは集団が「世界」に発信できる環境が現実となったことと同期しているのではと感じた。 この「世界」が翌年の応募作品では「自己」というものに向かっている作品がいくつか現れていることに少しばかり驚かされた。大きな世界から個人という小さな世界に視点が極端に移行している。その原因のひとつには、携帯端末などの性能の飛躍的な向上によって、メディア自体が個人の道具として、鉛筆で紙に描くように、ハードウェアを気にする必要のない環境になってきたからではないかと思われる。このことは、グーテンベルクが活版印刷を始めて以来、書物が大量に一般庶民の手にわたるようになり、書物の内容もそれまでの聖書や神話といった大きな「世界」から、悩みや恋愛といった個人的な小さな「世界」を表現したゲーテの作品がベストセラーとなっていった事実と似ている。 そして3年目の第21回の応募作品にはまた新しい傾向が見られた。それは「私たちの存在するこの世界とは何か?」 という問いを感覚や知覚を通して考えてみようというメッセージを持った作品がいくつか現れたことである。19世紀までの「非日常」をテーマとしてきたアートの表現が20世紀に入り、アーティストの視点が「日常」へと向けられるようになり、それまでの常識を揺さぶることとなったが、20世紀の後半からのアーティストの視点は「日常からの眼差し」から世界そのものを捉え直そうと変化している。この100年以上にわたるアートの変化が、わずか3年間で体験できたことは私にとって大変に勉強になった。
  • 森山 朋絵
    メディアアートキュレーター/東京都現代美術館学芸員
    不易流行のこころ ― 変 わ り ゆ く も の 、 変わらないもの
    審査にあたり初めに感じたのは、やはり、本芸術祭が20周年を迎えた前回と同様の思いだった―「いま『メディアアート/メディア芸術』は、ある文化領域が新たに成立する過程でたどる、既存の価値観からの『異化』や『飛躍』の時期を経て、長い『転化』のプロセスにある」。 私たちは、この領域が「従来の芸術とはこんなに違う、革新的で新しい芸術なのだ」という敢えてのアピールを長らく繰り返してきた。そして劇的な人気を得たあとも、すそ野の拡がりや義務教育化を横目に見つつ、メディアアート/メディア芸術が「真に"フツー"のものになる」日を待っている。が、そうこうするうちに貴方や私の人生は終わりかねない―などと考えつつ今回の作品群を俯瞰したところ、そんなに悲観することはないという気もしてきた。人々があるジャンルに抱く曖昧なイメージや先入観という点から言えば、この領域のここ10年ほどの大衆的イメージは「近未来的でシャープなもの」ではないだろうか。たとえば大賞『Interstices/Opus I - Opus II』の謎めいた静謐な風景は、この領域の「クールで格好いい」というひとつの側面を体現する要素かもしれない。優秀賞『水準原点』の峻厳さや、ひたすら手を動かして成立させていくアニメーション技法にも、その一端は窺える。一方で他の受賞作群は、無垢な発見による世界の描写を試み、どこかとぼけた印象さえたたえている。2017年の各現代芸術祭(ヴェネチア、カッセル、ミュンスター)では「無理にAR/VRを使ってみた現代美術作品」 が散見され、社会の不条理を訴えかける、文脈がにわかには伝わらない、難解な従来型作品群との対比が印象的だった。作品のつくり手とともに受け手も変容を続け、かつての私たちはもういない。しかし、シリアスでもプレイフルに、大変なことを軽やかに、"struggle"するだけではなく見せるのがこの領域の身上だという点は今でも変わらない ―と私は信じている。
  • 阿部 一直
    キュレーター/アートプロデューサー/東京工芸大学教授
    「メディア芸術」 再 考 ─ 新 見 地 を 踏まえての メディアアート
    今年からアート部門の審査に加わったのだが、個人的に課題として考えることがあった。現在、アートが多様化しているなか、「メディア芸術」あるいはメディアアートが、どのような位置付けを占めるのか、それが文化庁メディア芸術祭の受賞作品の中ではたして見えてくるのか、ということである。審査に入っての印象は第一に、映像作品が非常に多い。多様なメディア表現のコンセプトゆえに、結果的に映像でレポートしているというものではなく、プロパーな映像作品形式が多数を占めている。もちろん、映像コンテンツは、アニメーションから電子メディアを使用したものまで拡がりはあるが、おおよそはコンテプランによって基礎設計されたものだ。それから第二に、いわゆるコンテンポラリーアート、現代美術と呼んだ方がふさわしい作品が多い。その反面、サイエンス&アートの視点からアプローチしているもの、身体表現とメディアテクノロジーの関係を探求したものは、非常に少ない。世間一般の趨勢は、シンギュラリティ問題、脳科学、AIの進化、スーパーインテリジェンスといったキーワードに事欠かないが、その視点に真っ向から取り組んだ批評的な作品もほとんど見られなかった。さらには、近年新たな知見で再定義化され活性化している、人類史、人新世といった人類学的な見地からのアプロー チも皆無に近い。私見では、メディアアートのクリエーションの持つ重要な意義は、アートの表現/形式のフォーマットを根底からリセットする、サイエンス&アートの均衡をリデザインする作用にあると考えているが、オーソライズされた現代美術の様式、発表形態、価値観の呪縛や援用は、そうした批評性を覆い隠してしまう点がある。文化庁メディア芸術祭も20回を超え、そろそろ「メディア芸術」の定義の積極的な再考も視野に入れていく必要があるように思える。その中のアート部門は、放置された保守的雑多性の箱のままでいいのか考えさせられた。