24回 受賞作品アート部門Art Division

大賞

優秀賞

ソーシャル・インパクト賞

新人賞

審査委員会推薦作品

審査講評

  • 八谷 和彦
    アーティスト/東京藝術大学准教授
    初めてのアート部門審査
    文化庁メディア芸術祭は、2013-15年頃仕事で関わっていたことがあり、その頃から「アート部門は応募数が多くて審査委員は大変そうだな......」とは思っていたのですが、ついに今年度アート部門の審査委員をやることになりました。改善が進んでいたせいか審査は思っていたほど過酷ではなかったのですが、一方で難しさを感じもしました。「新人」の役割は率直な意見を述べることだとも思うのでここで書くと、それは「体験型作品を審査することの困難さ」です。現在アート部門の審査は、書類とウェブ上の動画で審査をします。公平性の観点から審査用動画の時間は限られており、その短い時間内で作品の特徴や独創性を見出すのは簡単ではありません。さらに困難なのはアート部門作品の多くは体験型の作品だったりします。インスタレーションでも映像審査は困難なのにインタラクティブだったり、さらにはVR作品だったりすると、作品の本質を掴むのは極めて困難である、ということは認めざるを得ません。しかし、審査というものは本来こういうものです。限られた時間、決められた方法で応募されたものを審査し、順位をつけ表彰する。私たち審査委員は各自の経験や知見を使って、なるべく公平に全力で審査をしたつもりです。しかしそれでも完璧な審査はあり得ません。やはり直接体験した作品や、展示で実物を見た作品のほうが確証を持って審査できた、ということはあります。......そろそろ気づいた方もいるかもしれませんが、これ実は受賞に至らなかった人たちに向けて書いています。言い訳めいて聞こえるかもしれませんが、あなたたちは敗者ではありません。5人の審査委員は神ではありません。好みも専門性もバラバラです。運もあります。あなたの作品が優れていたものだった場合、負けたのは私たちです。しかし選ばれた作品はやはり光るものがあったり、あるいは展示を体験する機会をきちんとつくっていました。コロナ禍で今それは困難であることは認めます。しかしやはり何らかの方法で展示や体験会を実施していただくことを望みます。そこでまたあなたの作品に会わせて私を後悔させてください。応募してくださってありがとうございました。
  • 田坂 博子
    東京都写真美術館学芸員
    変化の時代に
    新型コロナウイルス感染症のパンデミックによって世界の景色が一変した1年だった。世界中で政治的、社会的問題がSNS上を賑わせ、オンラインは、大多数の人々の日常生活の一部になった。美術館や映画館、そして文化庁メディア芸術祭をはじめとする芸術祭のような文化事業も、オンラインでの活動と向き合わざるを得ない状況となった。このような状況が、応募される作品にどのように影響されるのかという関心を持ちながら、2年目の審査に参加した。作品表現と社会的状況には直接的な因果関係がないとする考え方がある一方で、驚くような作品が、困難で変動の多い時代に誕生することがある。審査を引き受けた大きな理由には、審査の枠をはみ出してしまうような作品、予想もしないエネルギーに出会いたいという思いがある。それらの作品が現在とどのように結びついているかを理解することで、得られることが多くあるからである。残念ながら、今回の応募作品には、前回よりも、審査委員が満場一致で選び、踏み込んで議論できる作品が少なかった。また映像作品が圧倒的に少なかったことは、映像言語がメディアアートの表現の一部として浸透したことによるのだろうか。このような状況で、VRやARなどの技術を作品のコンセプトのなかで適切に用いることで、精度の高い表現へと昇華させている体験型の作品やパフォーマンス作品が受賞作品に多く含まれたことは、今回の特徴的なことである。ただ体験型の作品やパフォーマンスは、同様の条件で体験しているかしていないかで、評価の判断が難しい点があり、審査委員の中でも議論があり、今後検討すべき課題である。審査のなかで、これはアートかどうかという議論が何回かあり、その度に考えさせられることも多かった。メディアのプラットフォームが大きく変化し、さまざまな境界線が揺らぐ不確かな状況のなかで生まれてくる表現の可能性は無限にあり、そのことを見過ごさずに考えていきたい。
  • Georg TREMMEL
    Georg TREMMEL
    文化的記憶の喪失とメディアの自己表現
    私の審査委員として最後の年は、文化庁メディア芸術祭と同時期にスタートしたメディアアートにおける探求の旅を振り返る時間となりました。メディアアーティストにとって、24年間という長さはほぼ一世代に相当します。メディアアートの進化、アーティストたちによる新しいメディアの応用、また、実行委員会やフェスティバルはこういった変化をどう反映し、どう贈賞するのかを注視していきたいと思います。メディアアートは、人によってさまざまな意味を持ちます。アーティストたちは、新しいメディアが持つ技術的な可能性への理解から、それをコントロールしながら芸術性を追求する一方で、想定外の形へと具現化しますが、それはアーティストの自己表現ではなく、アーティストによって媒介されるメディアの表現であるべきです。アーティストは、前衛的な役割を果たすとともに、社会や技術における最先端技術の探求を深めることが大切です。しかし、メディアアートを学ぶ学生の数が増えるにつれ、似通った前提、社会的観察、技術的スキルのうえに成り立った作品が多くなり「文化的記憶の喪失」が生じています。メディアアート作品の審査においては、主観的な順位付け、異質な作品同士の比較、そして作品を本質までそぎ落とし理解することが重要です。審査の場だけでは伝えきれない作品の場合、「作品のコンセプトや形態は何か?」「作品の技術的な側面での革新性やおもしろさは?」「社会状況にどう作品が関わっているか?」といった点を作品に要約、提示する創意工夫がアーティストに求められます。この3年間、本芸術祭にてアート部門の審査委員を務めさせていただいたことを大変光栄に思っています。多くの作品への洞察を得られたことはこのうえない幸せであり、審査委員同士の交流や議論ができなくなることは寂しい限りですが、今後のメディアアートシーンや私個人の作品、文化庁メディア芸術祭がどう進化していくか、また次世代での発展に期待を寄せています。
  • 池上 高志
    複雑系科学研究者/東京大学大学院総合文化研究科教授
    生の体験とメディアアート
    毎年の応募作品が、多彩で国際色豊かなのは、素晴らしいことだ。すべての作品には、作者の大量の熱量と時間が注ぎ込まれており、審査は毎年非常に消耗するというのも事実である。今年の作品についていえば、その場で体験してみないとわからない作品、のことが非常に議論になった。今回、大賞を受賞した『縛られたプロメテウス』や、優秀賞を取った『Sea, See, She - まだ見ぬ君へ』など、その場で体験することを前提とした作品だ。それを生の体験といおう。生の体験はビデオによる作品鑑賞では味わえない実在性を孕んでいる。コロナ禍にあり、今ほどこの「生の体験」への渇望が問題となっている時はないだろう。逆に今後新型コロナウイルスとともに、生の体験を必要としない作品もまた増えてくるだろう。それに答えてくれる科学技術を我々は進歩させるだろう。その技術の進歩により、CGと写真は区別が付かなくなり、立体音響が進み、鑑賞者とインタラクティブになり、複雑な仮想空間が生まれている。アートの表現・表象もまた進化している。しかし問題は技術進歩がアートの質を高めるわけではないことだ。メイヤスーというフランスの哲学者が10年ほど前から「減算と縮約」ということを言いはじめた。縮約された表象とは、余分なものを削ぎ落とした表象である。ミニマルな圧縮された表象といってもいい。科学はこれまで縮約された表現を目指してきた。一方、減算は対象の複雑さをそのまま受け入れた表象をつくる。そんな減算的な表象には了解不能な穴が開いている。それに実在性がある。技術革新は「生の体験」も手中に収めることができるのだろうか。これからの時代、技術の進歩とともに、縮退した表象を持った小作品ではなく、どこか超越した大きな作品が出てくることを期待したい。「生の体験」という強度は、人の認知を凌駕する、大きな作品であることを希求する。そういう作品を今度は審査委員という立場を離れて鑑賞したい。3年間お世話になりました。
  • 秋庭 史典
    美学者/名古屋大学准教授
    ありうべき生命観から
    アート部門への応募総数は、第23回に比べてわずかに減少している。減ったのは主として海外からの応募である。他方で映像作品の応募数が増えている。この2つを新型コロナウイルスの感染拡大と直接結びつけてよいのかどうかはわからない。少なくとも応募期間の前半はそれとは関係がない。いずれにせよ、このような困難な時期に、全体で前回とそれほど変わらない数の応募があったのは、特筆すべきことと考える。審査にあたっては、コロナ禍だからこのような作品を、という選び方はしていない。あくまで個々の作品が問題である。大賞は、小泉明郎『縛られたプロメテウス』に決まった。この作品は、ALS患者で著書『KEEP MOVING 限界を作らない生き方』(誠文堂新光社、2018)をはじめさまざまな活動で知られる武藤将胤さんとのコラボレーションによるものである。贈賞理由については八谷和彦審査委員によるテキストをご覧いただきたい。私がこれを重要と考える理由は2つある。ひとつはこの作品が、ただ問題を提起して終わる作品ではないことだ。それは、見る/見られる、声と同一性、テクノロジーと身体といったさまざまな関係を用いて、見る者に決定的な一撃を加える。その過程で、見る者をすでに思考へと巻き込んでいる。もうひとつは、この作品が、私たちが向かうべき側からこちらに放たれたもののように思われることだ。アートはしばしば予見的であると言われる。しかし実際には、こちら側つまり現在の科学技術から予測される帰結を未来に投影し、その結果を現在の生命観を基準にユートピア化/ディストピア化していることが多い(あるいは、単なる技術の使用が、アートという名称や解釈者の修辞技巧のおかげで、予見的なものに見えている)。この作品は違う。それは、現在のそれとはいったん隔絶した、ありうべき生命観から、科学技術と社会と倫理の「わずかにその先」を、今すぐ考えるよう促すのである。その生命観には名前も何もない。しかしそれがありうべきであることを信じさせるだけの力が、この作品にはある。優秀賞には多様な作品が選ばれた。ARで見るポップアップブック(Adrien M & Claire B『Acqua Alta - Crossingthe mirror』)、心筋細胞の律動を肉眼で見ることのできる バ イオアート(Nathan THOMPSON / Guy BENARY / Sebastian DIECKE『Bricolage』)、暗闇のなか聴覚を通して体験する映像作品(See by Your Ears(代表:evala)『Sea, See, She - まだ見ぬ君へ』)、ウィンチで巻き上げられたディスプレイ5台がスウィングさせられるただそれだけの作品(Stefan TIEFENGRABER『TH42PH10EK x 5』)。しかしいずれの作品も、テクノロジーと身体・生命の問題を、それぞれ別の観点から問い直していると言うことができる。新 人 賞 の3作 品(小 林 颯『灯 すための 装 置』、Ka itoSAKUMA『Ether - liquid mirror』、小宮知久『VOXAUTOPOIESIS V -Mutual-』)は、各々が、アニメーション、面振動、記譜法といったメディアの新たな探究を試みている点で、受賞にふさわしいと思われる。ソーシャル・インパクト賞(Simon WECKERT『Google Maps Hacks』)は、SNS等で話題になったものなので、ご記憶の方も多いだろう。審査を担当していた3年のあいだには、さまざまな出来事があった。ひとつだけ記しておきたいのは、作品はリアルに体験してもらうことがなによりも重要だという、ごく当たり前の事実である。阿部一直・前審査委員をはじめ誰もが展示の一層の充実を目指していたにもかかわらず、前回はそれが果たせなかった。今回こそ、リアルな環境下でのパフォーマティブな展示ができるよう願っている。その一方で、爆発的なまでの、場所を共有しないタイプの「ランディングサイト」は現れえないのか、という気持ちもある。実はすでに現れているのかもしれない。今後それが浮上してくることを期待したい。