23回 受賞作品アート部門Art Division

大賞

優秀賞

ソーシャル・インパクト賞

新人賞

審査委員会推薦作品

審査講評

  • 秋庭 史典
    美学者/名古屋大学准教授
    新しいものの創造という古い信念から
    科学との協働から構想されたいまだ見ぬ生命の姿を、技術を含む生態系への洞察に基づきかたちにし、それを見るものの心に̶それが何かはわからないまま̶決定的な一撃を加える......そのようなものとの出合いが、文化庁メディア芸術祭の審査に臨んで私が心待ちにしているものであることは、前回の審査講評に書いたとおりです。実際の 順序としては、「何だこれは?」という出合い(驚き、衝撃、恐怖、違和感、薄笑い等々)があり、そのあとに、その作品がどんな生命感から生まれてきたものなのか、またその作品がどういった生態系への洞察に導かれていたのか、ということが知られることになります。したがって重要なのは、まず「何だこれは?」 と思わせる何かが、作品から感じられることだ、ということになります。もちろんそれは、単にセンセーショナルなものを意味するわけではありません。じんわりと、「おや?」と思わせるものでも構わないわけです。こうした私の考えは、芸術とは何よりもまず新しいものの創造であり、しかもそれは、生・思考・感覚、そうしたものが切り離されず、その変様がまずはまるごと身体的に与えられるようなものであるべき、というきわめてオーソドックスで何のおもしろみもない芸術観から生まれています。また、そうしたものを体験しているとき、わたしは自分自身という狭い枠組みから連れ出されて、わたしでもあなたでも誰でもない、そのような境地に導かれているはずである、という、これも手垢のついた古臭い信念のようなものに依拠しています。さらに言えば、こうした信念と最も遠いように見える新しい科学や新しい技術こそ、それと真剣に取り組んでいるという、私のもうひとつの信念に基づいています。今回の審査でも、そのような芸術の可能性を感じさせる作品に出合うことができました。あらためて感謝申し上げます。
  • 池上 高志
    複雑系科学研究者/東京大学大学院総合文化研究科教授
    無意味さのメカニズム
    学校では日本語が論理国語と文学国語に分けられ、あいちトリエンナーレが会期中に国からの補助金を取り消され、バンクシーのネズミを壁から引っ剥がして来て都庁で公開する。そういう時代に僕らは生きている。芸術とは何か、といったことに興味はないが、しかしそのような社会情勢下での芸術祭であることは頭のなかに入れておく必要はある。そんな状況で始めた審査であったが、作品には救われた。アーティストは作品をただ見てほしい、聴いてほしいという純粋な気持ちで送ってくるからだ。残念ながら今回は、大きく心にくる作品は少なかったという印象だ。どこかで見たものの焼き直しや、これまでの延長のような作品が続く。メッセージ性がないと嘆く審査委員もいる。しかし僕は、メッセージ性のないことこそが、この時代のメッセージとして評価できると思う。人の知覚のスケールを超えたもの、一言で言い尽くすことのできないほど複雑なもの、人の解析をゆるさない詳細なデータで出来上がったもの、それらは人間抜きの現代の象徴だ。このマッシブで、まとめようがないもの、それがポスト人類史にはふさわしい。今回の作品群のいくつかには、それを体現していてくれたものもあった。例えば270個のゴミ袋をゆっくりと収縮させている作品『Two Hundred and Seventy』などは心に残った。芸術というのは、当たり前に既存の枠の外に出るもの。枠をはめられることを嫌がるものだ。芸術は腹のなかに制御できないものを抱え込むことだ。そのことは変わることはない。メディアアートもまた例外ではない。そこにあるのは、生命であり、美と死であり、文学と嘘である。ちょうどこの文化庁メディア芸術祭の募集が行われていた時期、岡山芸術交流ではピエール・ユイグが、生命の解消されない不穏さや計算不能性を扱った作品を展示した。そこにはかつての内部観測やオートポイエシスと通じる現代的なテーマが見て取れる。変遷するメディアアートの姿を来年は見られるだろうか。
  • 阿部 一直
    キュレーター/アートプロデューサー/東京工芸大学教授
    メディアフォーマットと身体性の変容
    文化庁メディア芸術祭アート部門の選考委員を過去に3年間経験してから約4年が経ち、今回初めてアート部門の審査に関わらせていただいた。この5年間で、大きく変化した流れがあるとするならば、審査基準のなかでカテゴリーの分類をなくそうとしている点で(実際の作品形態の分類は存在している)、それによって作品を総合的に分析することが可能になり、より作品のイメージの問題へと議論を深めることができたように思う。人工知能(AI)、バイオアート、3Dモデリングなどが用いられる作品はもはや目新しいものではないが、その作品表象に至る実現方法や、作品の問題提議に対しての成熟度の高い作品が審査上の焦点となった。その意味で、ソーシャル・インパクト賞を受賞した、アメリカ人アーティストLauren Lee McCarthyによる『SOMEONE』は、現代テクノロジーと人間の関係を作品化することで、観客が現代人の日常生活を疑似体験し、現代の人間同士の関係のリアリティをも露わにしてしまう意味で社会的批評性の高い作品であった。一方で、『SOMEONE』に代表されるような、既存のメディアやテクノロジーを前提とした表現形態は、多くの作品制作の主流となっており、そのこと自体が作品の強度を弱めている印象も若干持った。現代テクノロジーが身体化された、デジタルネイティブと言われる世代によって、メディア受容の感受性が変化していることを実感する一方で、全体の応募作品のなかに、得体の知れない理解不能な作品との出合いは少なかったように思う。そのなかで大賞を獲得した米国出身のAdam W. BROWNによる『[ir]reverent: Miracles on Demand』は、バイオメディアを用いながら、キリスト教の大きなテーマから、アートの潜在的な問いを投げ、広義の「メディア」を含蓄した点で異彩を放っていた。
  • 阿部 一直
    キュレーター/アートプロデューサー/東京工芸大学教授
    バイオ・アート、バイオ・メディア、そしてバイオ・ポリティクス
    文化庁メディア芸術祭アート部門の審査委員としての2年目はさまざまなことがありました。あいちトリエンナーレでの一連の出来事が日本とオーストリアの国交樹立150周年を記念するウィーンの「Japan Unlimited」展へも波及することによって、日本のメディアアートコミュニティや、文部科学省と繋がりのあるアーティスト、文化活動に従事する人々は困難な立場になってしまいました。私が審査委員を今年度も続けることには、メディアアートに関する公開討論などで発言をするなどして、彼ら若いアーティストをサポートし、励まし、力になれればという思いが背景にあります。 選考の場面では、私自身が作家活動をしていますので、作品が最終的な形に至るまでの手順を想像し、どのように作品が生まれるのかの思考プロセスを洞察することができたと思います。時には興奮し、がっかりすることもありましたが、ほかの審査委員の考えを知り、議論をするなかで、作品を何が特別なものにしているかを理解することに時間をかけました。こうして選ばれた作品は、審査委員の関心と視点を反映しています。ある作品は特定の審査委員と、また、ある作品は複数の審査委員と共鳴します。そして、稀なことではあ りますが、審査委員全員と共鳴する作品もありました。今年は、アート作品としてのコンセプト、使用されている技術、作品に見られる現代的テーマなどから判断し審査を進めました。作家にとって困難なのは、丁寧につくられていること、新しさ、現実との関係性を持つだけでなく、高いレベルでバランスのとれたものをつくることです。このバランスを見つけた最良の例として、これまで奇跡と解釈されてきた生物学的プロセスを用いた作品が大賞に選ばれたことを嬉しく思います。この受賞によって、メディアアートの概念を拡張、再定義し、錬金術的な方法で生み出されるメディアアートが歓迎されることを示していきたいと願っています。
  • 阿部 一直
    キュレーター/アートプロデューサー/東京工芸大学教授
    審査の先に見るべきものを考える
    文化庁メディア芸術祭は、応募に対する受賞評価がメインであり、年度によるテーマ設定や企画性は薄いため、応募作品による時流の傾向を反映するしか特徴を顕すことが難しい。しかしそのなかで、アート部門に関しては、受賞作品の展示性を強化することでメディアアートの特異性をバックアップすることが可能であると審査委員担当の3年間に考えてきた。アート部門の応募数は前年に対してやや減少したが、その理由として、映画的なストーリーテリングベースの映像作品の数が、前年の評価傾向から応募が少なくなったことがあると思われるが、その分、メディアインスタレーション、サウンドアート、バイオアート、AI関連などの特化された多彩な領域はそれぞれ増えており、ニューテクノロジーおよびサイエンスの未来形を、必然的にも批評的にも取り込んでいく情報アートまたは情報デザインが中心軸、という認識は高まってきたことがうかがえる。「メディア芸術」という総合概念が、世界的に見ると普遍的ではないだけに、そのなかのアート部門として、明確な特徴がようやく発現できはじめているのは有益なことではないか。浅く広くの既存芸術領域のカバーやパッチワークの繰り返しでは、その先の創発性や特異性への展開は期待できないからだ。メディアアートの意義は、このジャンルの確立、掘り下げだけでなく、これまでコンテキスト化されてきていないアートの新領域をテクノロジーやサイエンスのクロスオーバーから鉱脈開拓する、あるいは既定の歴史主義をアップセットしリニューアルする、といった役割がある。今年度はさらに例年の賞のほかに、ソーシャル・インパクト賞が加わり、ソーシャルデザインの視点からテクノロジーとアートの共有点を見出す方向性も、応募の軸のなかに今後強化されていくことが期待される。上位受賞の作品は、本年秋の文化庁メディア芸術祭において、展示が予定されているが、昨年あたりから、それらの展示機会自体の評価や展示内容やインスタレーションのクオリティの本格化重視を強めたいという審査委員の希望もあり、受賞結果の表彰だけでなく、やはり作品を現在の東京という現実的な社会のなかでパフォーマティブな次元で主張する機会のサポートをより強調していくことへのシフトである。特にメディアアートは、作品はコンセプト的にも、開発的にも実装においてアップデートが可能な領域であり、応募受賞時点での作品が展示時点でよりバージョンアップ、スケールアップしたもので展示される可能性があっても良いと考える。今回の受賞評価には、作品が実際に展示された時のインパクトも想定して考慮されている点がある。以上のようなアート部門の審査背景の変化が起こっていくなかで、今年度の印象は、特化されるメディアアート領域内での多様性が定着してきたが、その分、予想を超える構想やサイエンスの援用といった驚きを含んだ作品はあまり見られなかった点がある。メディアアートが、民生化されたテクノロジーをベースに展開されていることから、個人や学生がアクセスしやすい技術環境の共有や普及が比較的容易化されつつあるが、その反面、特殊な構想や実験性からのみ発現する作品の突出力は弱まり、大なり小なりの類似物が増えていくことは否めない。そのなかで、大賞受賞となった『[ir]reverent: Miracles on Demand』は、バイオアートを歴史文脈から新たに俯瞰しようとするもので、キリスト教の教会慣習や象徴性をバイオアートの視点から解読した結果の齟齬や問題を具体化している。バイオアートによる大賞は初めての例になる。作品の実現化までの数年の研究が背後にあり、表象形態もバイオ兵器的なポータブルパッケージ化している点もシニカルであり批評的だ。上位評価の映像作品では、ス トーリーテリングの要素よりは、今後の5G世代に一般化してくるであろう高解像度表象における3D的表現の追求が傾向としてあり、さらに特殊ドーム型シアターでの上映環境がインフラ前提としてあるなど、ユニークなインフラとオリジナルコンテンツ制作のセットという、従来の知覚環境とは異なる制度的な進化も読み込まれ始めた予兆が見て取れるかもしれない。ソーシャル・インパクト賞を受賞したネットワーク作品『SOMEONE』は、eコマース上で実装化されているAIサービスセンターの機能や構造の位置を、実際の生身の人間(鑑賞者)に代入置換させることで、ブラインドとなっているリアリティやIoT的なモノ世界の固有性を喚起させていく批評力の高いものである。鑑賞者としての人間も、透明な超越的位置に安穏逃避していることはできないのである。優秀賞のなかでは、『Soundform No.1』は、アプローチはややレトロな19世紀の忘却された科学発見に基づいたシンプルでフィジカルなサウンドアートだが、従来のサウンドアートやサウンド彫刻とは異なる、ビックデータを処理する知覚からアプローチしたときの緻密な解像度が前提となってフィードバックされてくる、リアルな物理世界と複雑性、集合性の発見が基軸に発想されており、ハード装置の設計や制御の精緻さも相まって、ソフトウェア偏重なデジタルアートの傾向を打破する、現在的な感覚性と新鮮度を導入するものに、私には感じられた。